日別アーカイブ: 2021年3月10日

再びの船弁慶

2月末日、Eテレで能『船弁慶』が放送された。奇しくも10年前に同じ番組(古典芸能への招待)で同じ演目を観た記憶が、冒頭の囃子を聞いて鮮明によみがえってきた。3月11日からまだ日が浅かったあの晩、お茶の間で不協和音が能の囃子とともに鳴り始めたことまでも…。

震災発生から続々と更新される死者の数に戸惑い、あってはならない原発事故に恐怖し憤る日々。不条理とも言える凄惨な状況
に混乱し、私は心身ともに固まってしまった。「このまま放心していてはいけない!」とにかく思索の糸口を探し、何でもいいから打開するきっかけを手繰り寄せなければ、という一心で先達の知恵を借りようと私はもがいた。松尾芭蕉やヘラクレイトスの、自然の理(造化)に従い、諦念の域まで昇華させたような万物流転の思想に、自然との正しい向き合い方や災害との折り合い、人間の愚行を反省するヒントがあるのでは?と考えてみたり、また人生における不可抗な宿命、理不尽さへの恨みや悲しみを時を超えて演じ続ける「能」の芸術的な存在意義についても興味を持った。そんな時に折良く放送されたのがこの『船弁慶』だ。
…さて番組の時間となり、松の絵の清々しい舞台が映し出されたテレビを真剣な面持ちで注視していると、横にいた当時の良人が「このヨォ〜っとかポンとか超おかしいね。笑っちゃう」と茶化しはじめ、反知性的(己の理解を超えた対象を小馬鹿にし嘲笑でごまかす)態度で鑑賞の邪魔をするので、私は半ギレ程度に感情を抑えつつ「能は静かに注意深く鑑賞しなければならない」と教えてあげたが、相手は居た堪れなくなり退場(その後私の人生からも退場)。10年前にイライラしながら観た『船弁慶』を再び観て、あの頃の重苦しさと遣る瀬無さが脳裡に去来するのを禁じ得ない。

…西国へ逃れる義経の無念、残された静御前の寂しさ、滅ぼされた平知盛の怨念、それらの「残留思念」は、限られた所作とミニマルな小道具、囃子の抑揚、厳かな謡いと舞によって5百年の長きに渡り演じられる物語の主題だ。
能の世界にたびたび登場する強い執念から樹木に変化した者や、現世に未練を残す亡霊たちは、通りすがりの旅人に生前の非業や悲恋を一通り語り尽くし、気がすむと去る…。舞台上の旅人と共に観客の私達も静かに耳を澄まし、受け入れがたい運命を許容してゆくプロセスを、非常にゆっくりとした速度で共有するのだ。亡者の恨み言、繰り言を時間をかけて傾聴するとても奇妙な芸術は、人間の業と感情が何百年経っても変わらぬが故に美しい意味を持ち続ける。非合理的な霊魂の存在を認め、彼ら異形への同情を否定せず、あえて肯定する芸能文化は、理不尽で儘ならぬこの世の慰みの一つだと言えよう。(嫌なことを思い出して愚痴っても良い。それが人間)

〈臆!怒涛の閉塞艦〉2012年
heisokukanのコピー2
「原子力安全神話崩壊クロニクル」「記憶の防波堤」をテーマに震災の翌年に製作した当作品は、近日開催『マジック・マウンテン』に出品。この展示コーナーには他にも臨海開発失敗戦記〈風雲13号地〉や相互監視のメッカ〈人外交差点〉、完成後即遺跡!巨大負のレガシー〈ディスリンピック〉など、苦々しい気分にさせる大型作品が大集合!

もうすぐ展覧会です(間に合うかな?)
トーキョーコンテンポラリーアートアワード受賞記念展
3月20日(土)〜6月20日(日)
会場:東京都現代美術館