最近なんだか四次元ボーヤに元気がなく、顔が白っちゃけてシミのようなものが浮いて見える。表面を拭いてみても変化なくどうしたら良いものか…。
そこで、鑑賞石には「水石」という呼び名があるぐらいなので、一度入浴させてみることにした。ボールにお湯を張りポチャンと沈めると、口から細かい気泡を吐きながら「じぃーじじじじ、じぃーーー」と小さい声で鳴きはじめた。四次元ボーヤは生きている!
神田カルチェラタン
ベンサムの幸福計算もマルクスのユートピアも信じない、水晶宮を建設する資材の何れにもなれない。ドストエフスキー『地下室の手記』の男は私と同類の社会不適合者だ。この引き篭もり中年による独白(陰鬱な小説)はボタ雪の追憶から始まる。その場面を彷彿とさせる昨夜の雪に乗じて、私も昔のことでも思い出してみようか….
先週の金曜日午后、O JUNさんの美しい新作を見るために神田小川町へ行った。私は32年前に小川町にある古書会館で入札会の雑用バイトをしたことがあり、この街を歩いてると当時の記憶が蘇ってくる。
大学3年生の兄が所属してた早大美術サークルのバイト先だった神田古書会で「人手が足らない」ということで私も駆り出されたのだが、仕事覚えも要領も悪くかえって邪魔だったような…早大生と底辺美術学生の差を痛感するばかりのバイトだった。(近代文学館が高額入札した夏目漱石の生原稿など見れたのは面白かった)
滅多にないインテリ学生とのふれあいで印象的だったのは、4年女学生の「人間への憎悪が残っているので肉は食べられない」という発言で、偏差値を超えて私は激しく同意した。
建物ばっかりの思い出フォトアルバムより
かつて神保町2丁目にあった〈東洋キネマ〉にはダダ建築という素敵な仇名が付いていた。私はこの支離滅裂な装飾が大好きだった。
タテカンが健在だった頃の明治大学。シュプレヒコールが聞こえてきそうな厳つい学府はもうない。(だがアイアンメイデンはまだいる)
對近代
古文書のみで〈視実等象儀詳説〉を理解するのは限界があるので、図書館で借りた春名徹 著『文明開化に抵抗した男 佐田介石 1818-1882』の助けを借りることにした。これによると熊本の神童と称された介石はカール.マルクスと同時代人だと紹介されている。
なるほど確かに、世界の同時代人と並べると、介石が煽動した仏教に基づく梵暦の普及活動、グレゴリオ暦反対運動の時代背景に奥行きが増してくる。
イギリスを震源地とする産業革命の波が様々な方面に影響を及ぼした19世紀とは?それはズカズカと土足で踏み入る近代によって旧来の美徳が荒らされていく入口だ。
ドストエフスキーはロンドン万国博覧会(1851)の水晶宮に近代合理主義の勝利を見出し、嫌悪感を抱いた。ワーグナーは巨大化する人類の野望が、近代の魔力で実現可能となってゆく不吉な未来を『神々の黄昏』に描いた。ニーチェが数々の著作の中で、来たる近代黄金期を(事前に)全否定したことは言うまでも無く、皆様の周知するところであろう。
そして我がジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵は、赤貧に喘ぎつつ、家具の無い部屋に寝そべりながら『未来のイヴ』を執筆し、科学の申し子である人造人間ハダリーの口から合理主義を呪う罵詈雑言を(とても優雅に)吐かせている最中であった!
闇黒の無限世界(高次の存在)を否定する悪しき近代的概念「理性」と「自然」。機械の貴婦人は後者の合理社会に安住する恋人・エワルド卿をエレガントに喝破する(けちょんけちょんに!!)。白昼とランプに照らされた視覚情報しか信じない者は「己れ自身からの脱走兵」だと…
西洋天文学における「見かけ」の宇宙と、見えない仏教宇宙の摺り合わせに奮闘した佐田介石の〈ランプ亡国論〉にも注目だ!
仏教天文学の扉
ようやく落ち着いてきたので『視実等象儀詳説』を紐解いてゆこうと思う。まずは〈序〉でも読もうか…わぁ何故か漢文!書き下し文を読んでると受験生になった気分♪ 受験勉強したことないけど!
〈序〉
人あり、岸上に立ちて見るに、蒸気船の行き過ぎるさは十里に測り没し、見えざる試みに以って、五十里鏡を望めば、測りざるを見る。ごときなるをもと没し、ゆえのその五十里尽くするに至りてまた見えざる。更に百里鏡をもって望めば、測りまたそれ見えざるを没す。しからばすなわち先に十里ほどに没するを見たるは、これ実に没したるにはあらず。肉眼の力これ及ばざりなれば、また五十里尽くするに至りて没するを見るも、実に没したるにはまた非ず。これ五十里鏡の力及ばざればなり、さらに二百里鏡、三百里鏡を望む寸はすなわち没し見るにあらず。また皆しからん、しからばすなわち、遠鏡のこれ見る所なおあたわざりし。その実象に達し、いわんや天地のこれ広大なるや、ああ!人目なんぞ及ぶけんやかな。これもって知る天地の真象は、眼において在らざる、心において在るを、いずくんぞこれ千載未発の視実のことわりを発明する。眼においてあらざる、なんじ心において在り。この所以なりや。(間違ってたらすみません)
エキセントリック僧侶.佐田介石 撰 (明治13年刊行)
崖の上から海上を航行する蒸気船を見ようと望遠鏡を覗く。ところが、どんどん倍率を上げても追いつかず見ることができない。このように肉眼も望遠鏡も真の姿を捉えるのには不十分である。しかし心の眼なら可能だ。これが「視実の理」の発明なのだ。(こんなかんじの意味かな?)
さよなら1月
怒涛の年末年始のせいで時間感覚が狂ってしまったが気がつけばもう2月。数少ないお正月の思い出を振り返ってみようかな?
姪っ子(中3)へのお年玉
受験真っ只中の姪の志望は都立高校。兄と義姉は青山/大泉、私は桜町(定時制)、妹は目黒と皆が都立高卒業 (それは授業料が安いから)
校則の無い学校に進学し髪を変な色に染めたい。そんな夢を叶えるために勉強に勤しむKちゃん。頑張って!
親へのお小遣い(少額)
数々の病気や怪我を治療しながら生きてるのに餅で死んだら大変!
なので注意喚起を袋に書いた「モチに全集中!」
老父母からの返礼品
(母の手作り)洗濯バサミを利用した猫ちゃんクリップ
(父の手作り) 風間キーホルダー。表=漢字、裏=平仮名
【忘己利他/もうこりた】キーホルダーは以前もらった父のオリジナルグッズ。天台宗の開祖・最澄の言葉を勝手に引用したという(不穏な書体と銀色がいいね!)
記憶ちがい
今から約20年前、島根県松江市の古社・神魂神社を参拝しここで奇妙な体験をした。巨木が林立する暗い石段を登り少し拓けた境内に着くと、古代にタイムスリップしたような厳かだけど胸騒ぎのする神殿が聳えている。太くはない柱の上にある本殿はどうして400年以上も変わらず残っているのか?とても不思議だ。おそらく結界に守られた神の領域の存在に間違いない。
畏怖の念で本殿を見上げると、開かれた扉に描かれた日月に強烈な日光が当たり反射して見えた。そこまでは事実なのだが、私は何故かこの記憶を「輝く神鏡を見た」と無意識に捏造し、思い出の光景は壁画ではなく本殿に祀られた古鏡の姿となっていた。そして昨年末、あんな素敵な呪物が家にあったらいいなという物欲は成就した!
雪は降るタヌキは来ない
高次サポーター
冬季のインク乾燥時間は少なくとも3日は必要なのに、細かすぎる下絵のせいで彫り作業が大幅に遅れ乾燥時間が0日というとんでもない窮状に….
「もう無理かも」と混乱しながら刷りの準備を進めてると、なんと使用する和紙を間違えた寸法で切ってしまった…しかも全部。140㌢にカットするため金定規を当て1mに鉛筆でチョン、そこから40㌢の箇所に印をつけたら(まさかの)1mの目印で切っちゃった!
あれ?なんか小さいなぁ…ん?ガーン・・放心。古文書のイメージでわざわざ薄茶色の紙を取寄せたのにどうしよう!何か魔物に取り憑かれたかのような瞬間。自分でも信じられない…時間よもどれ!(否もどらない)
だが取り返しがつかない大失敗に固まってる猶予は無く、有り合わせの白い紙で刷ることに素早く切り替えた。騒つく心は無の境地に押し込め (ピンチに止観あり) 粛々とやるしかなかろう。
【結果】薄茶色は絵柄に合わなかったことを完成品を見て確信する〈白で大正解だった〉
以上のように、自分の意思とは違う力によって好転することがよくあるので私は高次の何かを信じてる!また紙の選択を間違えそうになったら教えてください。
細かすぎた下絵
拡大コピーしたら細かくないよね
…と楽観したのが大間違い
新しい恒星
集荷直前ギリギリ滑り込みセーフでシドニービエンナーレ用新作「ザ.セカンド.サン.アイランド」が完成。昨秋みたTV能で〈閻浮提〉という言葉を知り、不思議な須弥山図 (仏教宇宙)に辿り着いたことから始まった計画のスケジュールは大幅に乱れ、予想以上の難産となってしまった!年末年始に渡り各方面に不義理を重ね、蟄居中の孤独で発狂しそうになりながら風間ランドの暗黒宇宙に第2太陽が誕生したのでした。とにかく間に合って良かった…
一昨日やっと刷り作業…
邪眼フィラメント。この太陽には顔がある
浮遊するじつげつと雲の輪
第1太陽に輪っかは無いが第2太陽にはある。その正体は水力発電ダム
これがThe 2nd Sun Island全体像だ!
須弥山の標高は56万㌔!!この太陽島の作品サイズは縦183横127㌢
珍しくタイトルを英語にしたのは国際展出品だから