健康学園(3)

健康学園の朝は早い。6時に起床し布団をあげてから、宿舎の軒下に一列に並び、上半身はだかパンツ一丁の姿で夏は冷水摩擦、冬は乾布摩擦をします。「摩擦」というのは手ぬぐいで全身をゴシゴシこすって皮膚を鍛錬する健康法のことです。とても1982年の光景とは思えません!シュールすぎる!(アトピーの子も一緒にやっていたような気がする…。)
身支度し、朝食をとってから「登校」です。とはいっても一棟の施設内の一階が宿舎で、二階が学校なので、階段を上がるだけです。「登校拒否」をしようにも同じ建物内では難しいし、先生との関係も近く、登校拒否する児童はほとんどいませんでした。このように学校との距離を縮める工夫がされてました。教室は4、5、6年生が各1クラスずつで、全員あわせても30人たらずだったと思います。教室のほかは体育館や音楽室等は無く、図書室と「十四畳」と呼ばれてた和室のみがあり、十四畳では琴や茶道の指導などがありました。(幽霊が出るって噂があって超怖かった。)

授業は教科書をつかった学習のほかに、研究発表や演劇などの行事に重点が置かれていて、普通の授業よりもむしろ行事の方が記憶が鮮明なぐらいです。運動会では応援団の副団長になって、白袴に襷、鉢巻きの出立ちでエールの猛練習したり、アサリに寄生するメガロパ(蟹の幼生)の研究発表会や、劇団四季ファンの熱血教師の指導のもと「ふたりのロッテ」を上演(私は女中の役)。「よ〜うこそ皆さん、や〜あこんにちは〜♪」で幕開け!見に来た親達は健気なロッテに感涙してたっけ…..。等等イベント盛りだくさんなのです。ほかにも8キロマラソンや海での遠泳(カナヅチなので浜辺で見学)などキツイ体育行事もありました。
このような行事をとおして、一つの目標を皆で共有し協力して成功させる事で、本校では落ちこぼれだった児童達に、協調性と粘り強さと自信を身につけさせる指導が行われていたのです。

全寮制なので生活指導もキビしかったです。家族との面会は月に第四日曜日の一日のみで、訪ねて来た親兄弟と数時間だけ外出できます(ファミレスがご馳走!)。普段は園外に出るのは禁止、買い物は一ヶ月500円の予算内で、廊下に下げられた「買い物ノート」に所望の品(シャンプー、石鹸、鉛筆、消しゴム等)を記入し、保母さんに町から買って来てもらいます。最小限の私物しか持ち込めないので、無くなったらこのシステムで補充なのです。年に2回だけ町に買い物に行ける日がありましたが、慣れない買い物でテンパってしまい、使い道のすくない紫色と銀色のペイントマーカーを購入!同日に買ったチョロQ(フォルクスワーゲン)を紫と銀で塗ってカスタマイズしたが、寒々しい微妙なカラーリングに我ながらガッカリです。
学園は予算が少なかったのか、食事は贅沢な物ではなかったです。(茹でたマカロニにきな粉をまぶしたオヤツ「マカロニきな粉」に衝撃…)入所理由の一つが「偏食」なので食事は正直たのしくなかったです。自分なりに肉を食べない理由があっても、有無を言わさず毎日「食べなさい」「残したらダメ」と怒られ、拒否の態度をとれば「食べるまでテレビを見るのを禁止」のペナルティーです。みんながプロレス中継を観ているのを尻目に、ひとり肉とタイマン張りつづける辛さときたら!アレルギーや宗教で食事の制限がある人なんて世界中に沢山いるのに、何故ここまで強要するのか?当時から疑問でした。偏食も改善すべき重大な「わがまま病」と認識されてた訳です。
肉問題のほかにも食後の居残り指導がありました。箸の持ち方が「変だから直しなさい!」と小皿一杯の大豆が用意され、正しい持ち方で別の皿に全部の豆を移すように言われたが「今の持ち方が一番食べ物を運びやすいんです!」と反抗してやっぱり怒られた…。まあ結局は怒られる。

そんなこんなで、根っから反抗的態度なのでそう易々とは更生されず、たった一年間で学園を出て東京に帰ることになりました。中には健康優良児に華麗な変身をとげた児童もいたようですが…。
入所理由の喘息、偏食、登校拒否すべてが克服、改善されず(不穏分子のまま)、コンガリ健康児の日焼けもあっというまに色褪せ、もとのウラナリ少女に逆戻りしました。
一番たのしかった思い出は、みんなで砂浜で拾ったワカメとメカブに熱湯を掛けて「刺身」にして辛子醤油で食べたことです!あんなに美味しいワカメはあれ以来食べた事はありません!ワサビではなくカラシというのがオツですねっ。

こんな学童疎開のような生活も、今となっては貴重な体験だったと思います。戦時中の国民学校と健康学園の関連性を調べましたので、次回はそれを書こうと思います。(次回につづく。)
冷水摩擦