カテゴリー別アーカイブ: 古本

賢人右府が白髪を見付けたこと?

鴨長明「発心集 」現代語訳付き上下巻(角川ソフィア文庫)の下巻だけ一昨日手に入れたので、早速どんな本か何の気なしに開いてみたら〈賢人右府が白髪を見付けたこと〉という見出しの現代語訳コーナーのページだった。
この変な題のお話の大意は「小野宮右大臣が牛車で住まいに向かっていると、白くて小さい異様な男がすごい早足で車を追いかけてくるのが見えた。大臣が簾をあげて「何者だ?用は無いから立去りなさい」と言うと、男は「閻魔王の使いの白髪丸です」と名乗って牛車に飛び乗り、大臣の冠の上にひらりと登り姿を消してしまった。大臣はこれを怪しく思い、家で自分の頭を調べてみると白髪を一筋発見した。これに俗説の証拠をつかんだような感慨を覚え、今まで特になかった仏道への関心を深め、真剣に勤めるようになりました。」という感じで、この不思議短編は星新一のショートショートのようにシュールな読後感だ。私は第7-6の一編で「発心集」の面白さを確信した!

(次に開いたページは図版付き解説だった)
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入間川?と不審に思い読んでみると、方丈記と発心集に通じる災害描写の一例として、発心集4-9話〈武州入間河沈水の事〉が解説されていた。それは「入間川堤防内の河川敷に田畑を所有する当時の豪族・河越氏が、大雨による氾濫で屋敷ごと流され、官主と下男以外の家族全員が犠牲になってしまった。」というお話で、この恐ろしい水害の跡地(川越上戸)が気になり調べたら、現在は運動公園と野球場になっていた!

やへむぐら 拓く葦原いにしへの 田畑の夢に球ぞ飛びける (風間球太郎の詠める)

乞食者の詠める

蟹の気持ちを代弁したアニミズム詩人はエリック.サティと宮沢賢治ぐらいだろうと思っていたが、(なんと!) 万葉集の中に蟹本人になりきって哀切を歌った作品(16-3886)があった。
それは歌集に登場する色んな身分の中でも特に異質な〈乞食者〉と称する人が《蟹のために痛みを述べて》作った長歌で、大意は…「入江に作った葦の庵でひっそりと暮らしてた私(カニ)が急に宮廷に招かれた。楽師でもないのになぜ喚ばれたのだろう?頑張って歩いて行くと職人が上等な塩を用意しており、その塩を私の目にまで塗り込むのだった。私を食べるのでしたら、せめて美味しいと賞めてください、賞めてください。」…と、蟹の心情が切切と伝わってくるもので、私はこれを読んで今まで食べた蟹たちに「ごめんね、美味しかったよ」と詫びを入れたい気持ちになった。

乞食者の詠める二首(3885/3886)は、貴族に捧げられた鹿と蟹が絶命前に「命をとるのなら残った肉体だけでも賞賛して欲しい」と乞う内容で、献身の美徳というよりも、殺生と美食を貪る貴人に対しての静かな抵抗を感じ取ることができる。
作者の乞食者(ほかいびと)とは現代でいうルンペンではなく、家々を訪ね歩いて祝い言を唱えることを生業にする門付芸人のことだという。そのような非定住民だからこそ、制度内に暮らす常民にくらべ自由な表現が可能だったのではないか?と私は推測する。たとえ貴族から「こんな批判をする奴は誰だ!」と苦情があっても何処か知らない地に移動すれば良いのだから……。もしかすると漂泊の〈乞食者〉を騙る古代のアナキストが詠んだ歌なのかも?(そんな万葉ロマンを夢想するのも私の自由)

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乞食聖コレクション

先日ご紹介の鴨バイブル『鴨長明全集』には、方丈記/全歌集/無名抄/発心集が収録されており、全てが原文に近く読むのが困難。和歌まではどうにか読めたが、中世の文芸評論「無名抄」は内容が専門的で難しく、106の僧侶エピソードとそれに対する長明の意見を収めた「発心集」は仏教用語頻出でさらに難しい。
「発心集」の梗概によると…〈高僧と呼ばれるのが嫌になって船頭さんに転職した例、真のアウトローを目指して狂人のふりをし続けた例、公衆の面前で自殺をし有名になろうと企んだが失敗した例、俗世にいながら芸術活動に没頭することで解脱した例 〉などなど、106話にわたって初期鎌倉時代における宗教人の面白い有り様が書かれているという。

個人的には、俗世間に所属しながら(在宅で)高次の人間にステップアップできる方法に興味津々。芸術の仕事をあとどれくらい頑張ればいいのか教えて〜!手っ取り早く知りたいので、原文の 解読アッサリ諦めて 現代語文庫を買わむとぞ思う。(決してズルではない)

さすらいの乞食聖コレクション (絵葉書より)
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鴨バイブル

小中学校は1/3ぐらいしか通わず、定時制高校は高度な学習内容ではなかったので、教科書で学ぶべき一般教養の欠落が多分にある私は、この歳になってやっと鴨長明の『方丈記』を読んだ。
前半は京の都に繰返し災禍が襲う地獄絵巻のような描写が続き、後半は荒廃した都から山中に逃れ、3×3mぐらいの簡便な方丈ハウスをこしらえて、主に野草を食べながら気ままに暮らす鴨長明自身の心境が描かれている。既に多くの皆さんがご存知のこの有名随筆に、今更ながら深い感銘を受けたので50歳以降は鴨ライフを指針に生活しようかと思う。

鴨バイブル『校註 鴨長明全集』
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(親類縁者ではないが風間書房に親近感)
編者の簗瀬一雄氏が生涯をかけて蒐集した大量の伝本.写本の中から、もっとも原作に近い資料を活字に起こしてくれた貴重な書籍。単行本での入手不可、超レアな和歌集「鴨長明全歌集」も収録!しかも全文が現代語訳ナシなので、変な誤訳や誤解釈に惑わされず読者各自のフィーリングで読めるから有難い。深緑色のビニール表紙は汚れに強く、ポップコーンを食べた手で触っても大丈夫!こんな良い本がたったの400円!!!

タゴール冥想岩

音楽の聖人は楽聖ベートーヴェン、そして詩の聖人は詩聖タゴールだという。だが私はこの高名なインド人の詩をひとつも読んだことがない。ここにある古絵葉書〈タゴール冥想岩〉には、良くも悪くもない岩石写真が印刷されているが、なぜ岩に詩聖の名前がついているのか?冥想岩とはなにか?解説一切なく全てが不明だ。この絵葉書の秘密を探るべく、暇人の私は今日もコタツに入ったままネットサーフィンに出かけるのだった。(それは止観とは程遠い小波立つ雑念の旅)

【タゴール冥想岩まとめ】
●絵葉書の発行時期しらべ
岡倉天心と深い親交があったタゴールは天心の死後、彼の面影を慕って大正5年5月に来日し、茨城県五浦の六角堂にこもり瞑想したという。詩聖滞在の3ヶ月間、町中がタゴールフィーバーに沸いたらしいので、その熱狂から発行された絵葉書なのだろう。[大正5年(1917年)発行か?]
●岩の場所しらべ
天心先生が生前瞑想してた六角堂で座禅を組む異国の詩人、ガンダーラ彫刻のごときタゴール翁の神々しい姿を目の当たりにして、一門の弟子たちはどんなに感激したことか!その感動を後世に残すべく六角堂付近の岩に〈タゴール冥想岩〉と名付けたのだろう。しかしフィーバーが去り当事者が亡くなった今、岩の存在はすっかり忘れ去られ、この希少絵葉書しか残っていない。

以上推測が当たってるかは、五浦海岸岩場にタゴール冥想岩絵葉書を持参し確認するしかない。

謎が深まる謎俳句つき絵葉書〈タゴール冥想岩〉
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「人に似た岩は黙して河鹿あな 小波」
人に似てないこの岩を(つべこべ言わず)人と観て悟ることの難しさ…(小波とはおそらく俳人の巖谷小波:イワヤサザナミのこと)

同じ河に二度足を入るゝこと叶わじ

今夏参加予定の石巻市街地展の構想に取り組んでるさなか、昨夜の津波発生でTV画面に大きく表示された『にげて』を目にし、3.11大震災当時の心境に再び揺り戻されるような気がした。(そして今日は阪神淡路大震災から27年)
私があの時(とその後)、心身の混乱と膠着から逃れるために頼った言葉が、松尾芭蕉・笈の小文の序文〈造化にしたがい造化にかえれ〉とヘラクレイトスの思想〈パンタレイ(万物流転)〉で、この二つに通底する反人間中心的な概念と無常の摂理について想いを馳せると、「仕方がない」という諦念が自然に湧いてきて、風まかせでもフラフラ動けばいいや…と心が定まった。

あれから11年経った被災地で展示をするにあたり、私にとって拠所だったこの二つの言葉を改めて勉強しようと思い、関係のありそうな文献を読んでみることにした。本をペラペラめくると早速〈パンタレイ〉の語源が「同じ河に二度足を入るゝこと叶わじ」に由来するとの記述を見つけ、なんと鴨長明・方丈記の序文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」にソックリなことに驚愕する。これは偶然か必然か?古代ギリシアから平安/鎌倉/江戸時代へ万物流転…何か因果があるのだろう。

難しい本がいっぱい (たぶん読めない)
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煩悩の表現から真実相への解脱〈止観的美意識〉とは非常に難しいが、悟りの境地に至った名僧への憧れ、それ自体が美意識だというから安心したまえ。出家も遁世もしなくてOK (なので芭蕉も西行リスペクトでOK) たぶんそんなことが書かれている学術誌『美學』

集景中です!

絵葉書中毒が再発し、暇さえあればヤフオクで探す毎日。30年前来の累積が優に千枚は超える絵葉書群に異常性を感じ、そろそろやめなければと思うのだが(病的に)やめられないでいる。まずいことに昨今はネットで入手できるので、骨董市やフリマに出向いて細々と仕入れてた昔と違って急速に(病的に)増えてしまうのだ。露天商から買うのが趣味的な釣りの規模だとすると、ネット落札はソナー搭載の漁船レベルの漁獲量で本日も大漁!

先日掲載の絵葉書 (櫻島勝景〜牛根海岸より望む) 通信面を見ると、切手箇所には西郷隆盛&愛犬ツンの銅像シルエット、中央罫線には「鹿児島市東千石町|俣野 集景堂發行」と版元の所在地と店名が印刷してある。〈集景〉とは何と素敵な造語だろう!私の絵葉書中毒もある意味「風景を集める行為」なので、これに倣って病的蒐集も「集景してる」と言い換えようか?(明治44年創業の画材屋さん〈集景堂〉は今も鹿児島市の天文館にあるという。この大正時代の絵葉書持参でいつか訪ねてみたい)

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3月は古絵葉書の印刷を学びに京都に行く予定!

1914年1月12日

今から108年前まで鹿児島の桜島は名前のとおり四方を海で囲まれた島だったが、大正3年1月12日の大噴火による溶岩流出で対岸の大隈半島と地続きになり現在の姿になったという。このことは先日の新春古書自慢コーナーに登場の(櫻島大爆発) 噴火弾エハガキを調べてみて初めて知った。他にも大量エハコレの中に噴火の記録絵葉書を発見したので、本日「桜島の日」にちなみご紹介しましょう。

〈大正大噴火メモリーズ〉
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(櫻島大爆発) 噴火弾
美しい果物のようにテーブルに並べられた変な石。
この不思議な写真が桜島大噴火の記録だということはキャプションを読まないとわからない
こんな大きな噴石が空から降ってきたら命の保証はないだろう…

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(櫻島大爆發) 横山大噴火
黒い雨合羽の人は噴火に近寄りすぎでは?(当時の火山人気がすごい)
噴煙が恐ろしいこの地区も100年後の今は(特に化石が出るとかではないのに)恐竜公園のある町に!

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鹿児島港海岸より櫻島大噴火を望む
観測所がなかなか避難勧告を出さない中、島民たちは自分の船で自発的に避難したという。
(この写真にも人を乗せたそれらしい小舟が写っている)

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(櫻島勝景) 當時の凄惨を語る大隈櫻島間の水路閉塞の實況(牛根海岸より望む)
船が往来してた瀬戸は溶岩で埋まり、行止りになってしまった水路に佇む男。
長さ400m深さ70~80mもある海峡を1カ月ほどで陸地に変えた溶岩流の脅威!

孤島ノ光リ

〈新春恒例古書自慢会〉
〜膨張する絵葉書セレクション〜

これらは凡そ百年前の絵葉書で造化の天工(驚異の景観)の点景として未だ人間に価値があった時代のものである。恐ろしい風景の中にポツンと捨置かれた男。此人が、21世紀を旅する孤独な我等観光客に何やら喋りかけてくるようだ。招かれて私もいつしか洞窟の客人となる。

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(佐渡國小木港)  魚見海岸ノ大洞窟

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(銚子名所)  孤島ノ光リ

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札幌區大洪水 豊平川臨時渡船の実況

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(櫻島大爆発) 噴火弾

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(陸奥浅虫温泉場名所)  海岸の夕景

パパゲーノ効果

昨今「パパゲーノ効果」と「ウェルテル効果」なる事象が注目されていることを知った。失恋が原因の自殺願望を断ち切った良い例として『魔笛』に登場するパパゲーノ、絶望し自殺してしまった例えとして『若きウェルテルの悩み』の主人公があげられ、繊細で共鳴しやすい若者が、有名人の自殺を伝えるニュースに影響され後追いしてしまう可能性(ウェルテル効果)を危ぶみ、パパゲーノのように思い止まり生還した好例をもっと盛んに報道した方が良かろう…という自殺抑止策の提案のようだ。しかし私はまだ〈倒してもない大蛇を素手で倒したと偽証〉したパパゲーノしか知らず、更にゲーテの『若きウェエルテルの悩み』に至っては1行も読んで無いときた。推量の域ではあるが、おそらくそれは昨夜観たTV能『戀重荷』のような失恋ストーリーなのだろう。(それはこんなお話だった)

…白河院の庭園で菊の下葉を取る担当の老人が、屋敷に住む女御に叶わぬ恋心を抱く。「この箱を持って庭を100回以上周れたらチャンスがあるかも?」との伝言を真に受けて「よし!周っちゃうぞ」と意気込むが箱はびくともせず、持ち上げることすらできない。実は、軽そうに見えるラッピングで装飾された荷箱の中身は異様な重量の謎の物体。「だましたな~」と恨みながらお爺さんは死んでしまいました。そして女御に〈座ったまま動けなくなる呪い〉をかけたのです。「呪いを解きたいのなら私を供養しなさい。そうすれば葉っぱの守護神になるから」とジジイの怨霊は言う。その言葉に従い供養するとあら不思議、無事に動けるようになったのです。…

死に至ってしまうほどの苦悩には同情するが、座りっぱなしの呪いをかけてしまう執念は全く共感できない(私が終日座りっぱなしなのは、むろん呪いの類ではなく単なる怠惰だ)。18世紀に刊行の『若きウェルテルの悩み』は自殺ブームを誘発したため「精神的インフルエンザの病原体」と当時は呼ばれたらしい。同じゲーテの著作なら、もっと生きるのにお役立ちなポジティブ格言集があるので、そちらを参考にした方が若者の為になるだろう。(小説より短いし簡便)

 

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「心を蘇らす泉は自分の胸中から湧いてこねば、心身を蘇らすことはできない」さもありなん。