二人の志願兵

第一次世界大戦が勃発したのは、今からちょうど100年前の1914年。嵐のような銃撃、砲撃によって激戦地となったフランス北部の野原。かたやドイツ軍の野砲兵として、かたやフランス軍の騎兵として、塹壕をはさんで戦火を交えた〝かもしれない〟画家 オットー・ディックスと小説家 L=F・セリーヌ。二人は志願兵としてこの戦地へ向かったのである。

開戦当初の「クリスマスの夕餉には戦場での武勇談が披露出来るだろう。」というロマンチックな気運に踊らされ、多くの青年が兵隊に志願した。彼らもそんな青年達の一人だったのだろうか?ディックスは24才で、セリーヌは18才で志願兵となった。しかし待ち受けていた戦場は、ロマンもヒロイズムも存在しない、死と恐怖が支配する不条理の世界だった….。セリーヌは半自伝的小説『夜の果ての旅』のなかで劣悪な軍隊を呪い、主人公にこう独白させる「完全な敗北とは、要するに、忘れ去ること、とりわけ自分たちをくたばらせたものを忘れ去ることだ、そして人間どもがどこまで意地悪か最後まで気づかずにくたばっていくことだ。~~何もかも逐一報告することだ、人間どもの中に見つけだした悪辣きわまる一面を、でなくちゃ死んでも死にきれるものじゃない。」
そして、ディックスも戦場日記にこう綴る「戦争もまた、自然現象として、観察されなければならない。」…死臭漂う絶望的な地獄。敵対する陣地で二人の青年が見いだした生存目的は、奇しくも同じ『醜悪さを観察し記録すること』だった。

オットー・ディックスはいわゆる「ノイエ・ザッハリヒカイト/新即物主義」の画家で、私の好きな作家の一人である。主な画業は、銅版画50点の連作「戦争」や、第一次大戦後のドイツの貧困と堕落を赤裸々に描いた油絵などである。戦争と弱者を描いた、なんて書くと、まるで反戦主義のヒューマニストのようだが、作品を一目見れば、それが全くの誤解だったことに直ぐさま気づくだろう。「戦争」版画では、塹壕のドロ水で膨れ上がった死体、腐乱死体の横でとる飯盒のメシ、崩壊した肉体でまだ息をする兵士など、泥濘とウジと腐った体液にまみれた死屍累々が描かれている。嘔吐感を覚えるような目を背けたくなる作品には「正義」もなければ「平和の祈り」も無い。感情の麻痺した空虚な世界に横たわる、明らかに人間の尊厳を失った「非人格の死体」が冷徹に描写されているだけなのである。
そして4年にもわたる兵役を終え、この地獄から帰還し故郷ドイツで目の当たりにした光景。それは敗戦によって荒廃し堕落した市井の姿である。オモチャのように路傍にころがる傷痍軍人、性欲まるだしの水夫を相手に春をひさぐ娼婦達、八方塞がりの貧民、それを尻目に戦争特需に沸くブルジョワジー….戦場で死線を掻い潜ってきたディックスの目に、これら「生の退廃」の光景がどれほど醜悪に映ったことか!その市民に対する憎悪むきだしの油絵の数々は、どぎつく悪趣味で『醜悪』そのもの。水夫の体臭、貧民街のドブの臭い、娼婦の安香水など、鼻をつく悪臭が画面から発散されている。
….死出の予感を押し殺し、成り行きまかせに手繰り寄せる刹那的生存の連続『夜の果ての旅』で主人公バルダミュが彷徨する世界は、欲望と欺瞞と不信と無気力の坩堝である。その世界を巡る人物を想像する時、ディックス作品の生活者の人間性を暴露した、あられもない「人相書き」と思わず突き合わせてしまう。
ディックスが戦争の悲惨を描きながら「反戦画家」とならない所以は、市民に対する憎悪にあると思う。作品にはルオーが弱者に向けた博愛的慈愛の眼差しなど一切無い。平和主義の善意、未来への希望の兆しなど、一般市民に分かりやすい記号も皆無。市民に寄り添うどころか、露骨なリアリズムには悪意しか感じない。戦争も醜悪なら、戦争に容易に参加してしまう市民も醜悪なのだ。「自然現象」である戦争や権力支配に抗えない「弱者=市民」を醜く描くこと、それは強烈なニーチェアン(戦地にもニーチェ本持参!)であるディックスにとって至極当然のことだったのかもしれない。(これらの魔術的リアリズム絵画はナチス政権によって押収され「退廃芸術展」などで弾圧された。)

この愛されない画家、ディックスの戦後は不遇であった。終戦直前に54才で徴兵され、フランス軍の捕虜となり再び帰還した西ドイツの美術界では、アメリカのモダンアート、民主的自由の風を求めていた。美術館の予算はニューマン、ポロック、ロスコなど新時代の幕開けを象徴する抽象作品に注がれ、暗い時代を思い出させる「不愉快な」ディックスの作品は見向きもされなかった。アトリエから出ることの無いグロテスクな絵画とともに、貧しい晩年を過ごしたそうである。
一方、セリーヌは、反ユダヤ主義の立場で発表した文献がもとで戦争犯罪者となり、亡命先きのデンマークで投獄されたが、皮肉なことに第一次世界大戦の軍功を理由に特赦される。しかし戦後は彼の存在も作品も黙殺され、ディックス同様に貧困と不遇の晩年だった。・・・どこか奇妙に人生のかさなる、二人の過激描写リアリスト。「砲弾がひとつ、人間がひとり——偶然の交差点をもつ二曲線は、交差点があるかどうかもまた偶然…。」砲弾の飛び交う戦場でディックスはこう呟いた。それもまた然り!
「祝福することのできぬ者は、呪詛することを学ぶべきである」(ツァラトゥストラはこう言った)…あまりにも人間的な世界を祝福することのなかった画家と小説家。否(ニヒト)と否(ノン)。俺たちの吐く悪態、描かれた醜悪に我慢できるか?肯定と折り合い、口当たりの良さを求める善良な市民諸君よ!…死ぬまで否、死んでもニヒトって言い続けたいものであります。

(…セリーヌ読んで時間をつぶしてから森美「リー・ミンウェイ展」のレセプションへ。読後感を引きずったままシラケた気分で作品鑑賞。絆アートとの食い合わせは最悪です)

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銅版画シリーズ『戦争』(1924年制作)より
「クレリィ=シェ=ソムの絶壁で見たもの」
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「死人(サン・クレマン)」
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「移植手術」
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「サロン1」(1921年) 油彩 86×120.5㎝
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「母と子」(1923年)油彩  82.5×48㎝
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「ジョン・ペン」(1922年)水彩 73×50.5㎝
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「オットー・ディックス展」カタログ (1988年 神奈川県立近代美術館ほか)
「夜の果ての旅」上下巻 セリーヌ/生田耕作訳(中公文庫:1982年刊)