買った本屋さんも経緯もとうの昔に忘れてしまいましたが、本棚の片隅に追いやったり、気まぐれに引張り出したりしながら20年来親しんでいる本があります。昭和23年発行の「萩原朔太郎 遺稿詩集」という見た目がとっても貧相な本です。表紙はビニールカバーが被せられ、どうにか体裁を保っているのものの、見返しの効き紙といえば、まるで象のウンチで作ったような紙で、草の繊維がやたらと目立ちます。本文の紙も白、赤、黄、水色の細かい紙片が所々に散った、藁半紙やザラ紙よりもっと質が悪い紙なのです。「なんかボロいけど、朔太郎サマの詩が素敵だから気にしないわ♡」ってな感じで、この粗末さの背景を想像するまでには及びませんでした。
最近、この詩集と同じ頃に発行された2冊の詩集を手にして、やっと敗戦後の物資不足のなかで作られた本だという事に気がつきました。これらの本の共通点は、無漂白の紙に必要最低限の量のインクで刷られている点で、敗戦から2〜3年たっても紙やインクの不足が解消されていないのが、これらの本を見ると一目瞭然です。「堀口大學訳・惡の華詩抄」と「日夏耿之介訳・ポオ秀詞」二冊とも昭和22年の発行で、朔太郎遺稿詩集に負けず劣らずの紙質の悪さです。特に「惡の華」は三分の二がゴワゴワしたゴミだらけの紙、三分の一が薄くて頼りない変色著しい紙に印刷されていて、たった一冊の本の紙すら統一できぬほどの不足が手触りから感じられます。
この二冊とも五反田の南部古書会館で、コンディションは悪いけど雰囲気の良い本だな〜という直感だけで購入しました。なので装幀の作者とか気にしないでいたのですが、家でゆっくり眺めてビックリ。なんと「惡の華」は芹沢銈介、「ポオ」は岡鹿之助の手による装幀でした。ボードレールと民藝の芹沢銈介、E.A=ポーと岡鹿之助…とっても意外性のある取り合わせですが、なんという調和の妙なのでしょう!これは絶妙。粗末な紙に必要最低限のインクで刷られた(孔版か?)その表紙は、未晒の和紙に刷られた一葉の版画のような趣きさえあります。これは想像ですが「先生、インク不足で色数も面積も制限があるのですが、お引き受け願いますか?」という出版社の依頼に「よし。私にまかせろ!」と一流の筆をふるった一流の作家魂があったのではないでしょうか…?
内容も表紙とたがわず、とても格調高い訳詩です。…え〜っと格調が高すぎるとも言えます。大學先生のクラシック美な訳詩は、文庫本などで少しは馴染みがありますが、初めて読む日夏耿之介の文体は、ポーの「唐草ゴブランの独自性」に輪をかけていてちょっと難解です。蔓草更に絡まり複雑に綴られし…なゴシック感。粗末な紙の上に乱舞する絢爛たる言の葉、それは「ゴスィック・ローマン」の美学は体裁の貧しさに勝利する!そんな日夏の挑戦的態度とも受け取れます。
戦争で傷ついた心を癒そう、励ましあおう。なんて安っちいヒューマニズムなど微塵も持ち合わせない、ぶっちぎり上流文化人の心意気!貴重な紙だからこそ、最上質の文学に捧げなければ…というのはもっともですよね。今だったら相田みつをチックな応援ポエムに消費されそうだけど。
以下、日夏耿之介による「しりへかき(あとがき)」より抜粋。『….紙インキ乏しき大異常の世に、數こそ尠き限本といへど、世に故らがましく問はむら如何やと、人の思惑世の聞えの程深く考へられしなれど、又次の代の情景を空想の遠目金もて手まさぐるに、物各其時其処こそあれ、國の為人の為面伏せながら些か肯かるる妙なるふしの別になき非ず。かくて梓に上せぬる物畏ぢの心構えよ。』…う〜ん難しい。たぶんですが「出版部数が少なく、今の評価は定かではないが、将来の恵まれた時代であっても、国家のためとか、人のためとかに媚びるような文体であってはいけない。そんな覚悟で出版しました。」という意味でしょうか?とにかく気概はビシビシ伝わります。

「萩原朔太郎詩集5 遺稿詩集」小学館(昭和23年10月10日再版)定価100円
装幀:恩地孝四郎

買った当時の思い入れたっぷりに乙女ちっくカスタマされてます。
ビニールカバーに挟まれたクローバーの押し花と朔様のポートレート。
(ブロマイドはワタリウム美術館のパスポートチケット。19年前の…そんな昔かぁ)

繊維だらけの紙の見返しも切り紙でカスタマイズ。Sは朔太郎のS。
研澄まされた扉のデザインはさすが恩地!美しい水色のインクで刷られたピーナッツみたいな場所を指で撫でるとあら不思議!ひんやりしっとりした水色の感触です。インクの油分のせいかな?

ページを繰っていると急に薄い紙になったりします。「決闘」は穴だらけ。虫食いでは無い。

「惡の華詩抄 堀口大學訳」操書房(昭和22年7月30日発行)定価50円
装幀:芹沢銈介
未晒の地に踊る朱と墨。溌剌とした筆の運びに民藝の力強さを感じます。
装飾的な書体でボードレールの放埒さや耽美性を表現しているところがスゴイ。

色のツブツブが混じった紙。ジューC のヨーグルト味(キャンディーチップ入り)を思い出す。

「ポオ秀詞 日夏耿之介訳」洗心書林(昭和22年10月10日発行)定価80円
装幀:岡鹿之助
エメラルドグリーンの金蛇が妖しく美しい!そして細くシェイプされた文字の上品さ。
金蛇の目だけに使用された黒インクが、制限があるがゆえに発揮された「極上」の光を放っています。なんという贅沢!
「しりへかき」によると出版の15年前からポーの代表作『大鴉』の研究をしていたというのですから、戦争の最中もずっと呪われしリフレイン「Never more」を頭に巡らせていたのですね…時節に流されぬ高潔さが素晴らしい。忘却の彼方に捨てた小石をその嘴は拾って来る…その呪いの言葉はネバーモア!日夏耿之介の翻訳は『またとなけめ。』過去は取り戻せず、悔恨の捨て場は無い。またとなけめ!またとなけめ!
