同じ河に二度足を入るゝこと叶わじ

今夏参加予定の石巻市街地展の構想に取り組んでるさなか、昨夜の津波発生でTV画面に大きく表示された『にげて』を目にし、3.11大震災当時の心境に再び揺り戻されるような気がした。(そして今日は阪神淡路大震災から27年)
私があの時(とその後)、心身の混乱と膠着から逃れるために頼った言葉が、松尾芭蕉・笈の小文の序文〈造化にしたがい造化にかえれ〉とヘラクレイトスの思想〈パンタレイ(万物流転)〉で、この二つに通底する反人間中心的な概念と無常の摂理について想いを馳せると、「仕方がない」という諦念が自然に湧いてきて、風まかせでもフラフラ動けばいいや…と心が定まった。

あれから11年経った被災地で展示をするにあたり、私にとって拠所だったこの二つの言葉を改めて勉強しようと思い、関係のありそうな文献を読んでみることにした。本をペラペラめくると早速〈パンタレイ〉の語源が「同じ河に二度足を入るゝこと叶わじ」に由来するとの記述を見つけ、なんと鴨長明・方丈記の序文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」にソックリなことに驚愕する。これは偶然か必然か?古代ギリシアから平安/鎌倉/江戸時代へ万物流転…何か因果があるのだろう。

難しい本がいっぱい (たぶん読めない)
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煩悩の表現から真実相への解脱〈止観的美意識〉とは非常に難しいが、悟りの境地に至った名僧への憧れ、それ自体が美意識だというから安心したまえ。出家も遁世もしなくてOK (なので芭蕉も西行リスペクトでOK) たぶんそんなことが書かれている学術誌『美學』