大昔ある国の王子が、王様にこう申し出をしました「僕は ○ の外側全部が欲しい」。この要望が他の二人の王子に比べて余りにも賢く感じたので、王様はこの王子に「国境のない領土」を与えることを決めました…。
これは 詩人、尾形亀之助の随筆集『障子のある家ーあるいは(つまづく石があれば私はそこでころびたい)』で書かれた寓話『おまけ 滑稽無声映画「形のない国」の梗概』の世界のお話し。王子が死んだ後も、この輪郭を持たない国土はボンヤリと膨張し続け、その境界を確かめようと様々な学会の研究者が現地調査に旅立つが、誰一人戻ってくる者はいない。測量不可能の抽象的な国家をあずかる役人や大臣のポストの数も無限に膨らみ続け、愈々ハナクソの始末を司る「鼻糞大臣」という座まで誕生する。…贅沢できないはずの貧乏人がトンカツとビールを食べるとは何事か?という研究のために貧乏下宿人の生体解剖!が行われたり。と飽和状態の行き着く先きにはツマラナイ議論と過度の監視が待っている…そしていつの間にか、何となく国の規模や位置関係が分かってくると「国」らしい体裁をした美麗な地図を作り上げるが、そこに暮らす資産を持たない生活者たちにとって、地理や面積という概念はまったく感心の無い問題なのでした。
…この滑稽な物語の寓意するところは何か?「形のない国」が発表されたのは昭和5年です。芸術家たちのイデオロギー傾倒、そして思想弾圧の激化、世界大恐慌、軍閥の拡大…政治と経済に支配された『 ○ の外』は、戦争という活気を帯びつつ膨張しつづける。そんな世相に対して『自分だけの ○ の中』の住人である亀之助の抱いた不安や嫌悪感が、この寓話「膨張し抽象化していく世界」に反映されているのでは、と私は思います。
尾形亀之助にとっての外の世界、家庭や生活は景色であり、彼の忠実な心象はガラス窓越しに窓外の景色を見ている。「自分自身に即する」ことしか許されない、自我の宇宙に生まれてしまった彼のわがままで特異な感受性(機嫌が悪い日はお布団の端っこを握ったまま終日ふて寝、みたいな)はともすれば単なる怠け者のエゴイストと看做されてしまうかもしれない。しかし、そのどうしようもない外側との軋轢は、彼の「窓ガラス」を水晶のように研磨していく。それが亀之助作品の悲しさと美しさであり、その唯一者的な視点は、図らずも世間の生臭さに境界線を引く。世界を形成する「調和の美」というものが現在も存続しているとするなら、あらゆる共同体の表面的美を剥離する「疎外の美」の可能性が亀之助の作品にはあるような気がします。
「形のない国」中心の「○」は内容が無く空洞で、それを取り巻く権力の細胞基質だけが膨張してゆく不気味な世界。それは現在のイスラム国のスプレーで描いた霧のような「国境」や、安倍晋三が愚鈍なふりをしながら押進める「軍拡」をおのずと想起させます。昭和の初期に軍靴の響きを遠くに聞きながら、儲け話に花を咲かせるエコノミストにうんざりして「経済社会に貢献したくない」気持ちで餓死すら考えた亀之助が描き出した寓話には、戦後70年という節目を迎えながら、実はもうすでに戦時中?…かもしれない今の日本に、有益な示唆が多いに含まれているのではないでしょうか?
(●^○^●)★悪霊 ドストエフスキー★
この無邪気な絵文字に心をほだされウッカリ落札してしまいました。
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これもある意味「無形国」です。