日別アーカイブ: 2015年1月29日

斧と聖書

老婆を斧で叩き殺すという行為で、自分が「非凡人」であることを証明しようとしたラスコーリニコフ青年。聖書だけを心の支えに、身を販いでまでもドン底家族を養う娼婦ソーニャ。己の導き出した理論に固執した狂信者と、キリストの博愛と同化することで現実の「受難」を受け入れる狂信者。この二人の「狂信者」の奇妙な共感が「愛」まで(エピローグでやっと)昇華し、真の生活者としての自覚までを描いたのがドストエフスキーの長編小説『罪と罰』です。私はこのエピローグの取って着けたような改心に納得がいきませんが!もっと違和感を感じるのが新潮文庫の裏表紙のあらすじです。どうしたらこんな誤読が可能なのか?謎すぎる文章がこれです。

『鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合わせたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。』….以上。上巻のあらすじより

まったく内容と違うことにビックリ!大学生じゃなくて元大学生だし!「一つの微細な—-」の解説は実際ラスコーリニコフが考えたことではなくて、作品の後半でラスコーリニコフの妹ドゥーネチカに、そのストーカーであるスヴィドリガイロフが、兄の行った犯罪の根拠を洞察し、説明する下りで語られた言葉の抜粋に過ぎません。しかも「例えば」という前置きつきで確信をもった内容ではないのです。殺人に及ぶ程まで肥大した理論は「財産を有効に転用」などという鼠小僧的な発想ではもちろん無く、のちに「善行」に移行する予兆すら見当たりません。「あんな薄汚い婆ぁがトランクに貯め込むよりか、自分の学費にしたほうが有効だろう」ぐらいは考えたものの、この殺人にとっては二義的なことで、第一義は「非凡人性」の確認「血をまたげる人間かどうか?」にあるのです。「第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり」って、殺したリザヴェータを想起する場面はほとんどありません!ただ、想定外の出来事が、自信喪失をさせた大きな原因の一つになったぐらいで「罪の意識におびえる」こともラスコーリニコフには無い。「みじめな自分」とは、理想の完全犯罪を自分は行える、と自信たっぷりに意気込んでいたのに、その実行までえらく逡巡し「下見」に行く服装まで気を配れず、異様にボロくて目立つドイツ帽をかぶってしまったことや、たかが老婆1人の殺害に、意外にもテンパって消耗しきってしまったことを「みじめ」に感じ、この「非凡人」テストに落第してしまったことが「みじめな自分の発見」につながる訳です。
ラスコーリニコフの誤謬はどこにあるのか?「殺人」の正当性の根拠として彼が重ねて来た様々な考察、歴史上の支配者の多くが「血をまたげる者」であるという史的検証、非凡人=天才の存在は稀少で、その他大勢の凡人は種を存続させるための道具にすぎず、特にそのなかに寄生する有害な「シラミ」は非凡人の手で駆除されるべきで、非凡人には殺人の権利があるという理屈。そして完全犯罪は「理性」を保つことでバレることなく実行出来る、という確信。偉大なるニート・ロージャ君がひきこもり生活の中で導き出した理論は、彼の自負する炯眼に基づかれ「科学的」なもので一様の合理性は保たれている。しかし、この熟成し肥大した思考を実行に移す、という重大な決定権を最後の最後で非合理的な「辻占い」に託してしまった所に失敗の原因がある。と私は思う。

ドストエフスキーは科学的な新しい思考として「弁証法」という言葉で、ラスコーリニコフの思考地獄の遍歴を表現しています。このニートの自尊心肥大が「弁証法」のレベルまで到達しているかはさておき…今も尊敬されてる哲学者でも、弁証法の研究のなかで、その出口が見つけることが出来ず、とうとう宗教じみた観念に逃避してしまう人もいるぐらいだから、いかに理論だった思考を続けることが苦痛か、ということです。ロージャ君もテーゼの井戸のフチをぐるぐる回り続けることに疲れ果てて、「殺人」という行為で結論を急いだように思われます。その決心の後押しが、偶然に街で聞いた「あの金貸し婆ぁなんか殺されて当然」という見知らぬ学生達の会話の断片で、今まで一人きりで考えていた問題に「賛同者」がいることがわかり勇気づけられたのです。そして、またしても偶然に「リザヴェータの外出時間」という超一級の情報を耳にし、ゴーサインが出されたという錯覚に陥ります。まさに偶然の来合わせで、決行の決断へと跳躍するのですが、この「辻占い」にも似た「啓示」への信頼は、今まで積み重ねた合理的な理論から一気に、神秘的(非合理的)な結論へと飛躍させてしまうのです。この瞬間的に生じた「矛盾」にラスコーリニコフの誤謬があるのではないでしょうか?(その偶然と運命をギャンブルに賭けて大失敗した、ドストエフスキーの苦い経験が反映されてるのかもしれませんね)

「エピローグなんて無い方がいいのに!」と憤慨必至な、急転直下なラスコーリニコフの愛の目覚めと改心。バイオハザード的パンデミック悪夢を見てイノセント人間=ソーニャの勝利を知る!(笑)にはガッカリさせられますが、たぶんこの箇所が文庫本下巻のあらすじ「人間回復ヒューマニズムの書」の肯定になってるんだろうな。なんだかこのエピローグを読んでると、ラスコーリニコフが罪状を自供した際に「心の闇」を説明するのが面倒くさいので「悔恨の念から自白しました〜。」ペロっとうそぶいたように、ドストエフスキーも「凡人向け」のエピソードを用意したのでは?と邪推してしまいます。それに、頭でっかちの「弁証法」と「生活」=リアル充実どっちを取るか?という二者択一も用意されていて、まあ普通は「生活」を選ぶよね。それ正解。みたいなオチも解せない!きっと新しいイデオロギー(唯物論や功利主義)のアンチとして、宗教的人道を配置したのかもしれないが、結局はイデオロギーだって宗教だって人間のつくりあげた概念の一つに過ぎない。宗教に侵されやすい無垢な人間が勝利する物語「のように思われる」ことが残念です。…もっと沢山感想があるけど、ここらへんにしときます。

(名古屋の斧女子大生と聖書持参のエホバの老婆。斧と聖書に不吉な符号を感じますが、中学時代から持っていたという「斧」へのこだわりと「罪と罰」は関係あるのか?リーダー部という聞き慣れない部活動も謎!支配者への野心?)

2015-01-29 17.33.23
新潮文庫の『罪と罰』
現行の重版も同じ「あらすじ」が採用されています…改訂希望!
(この社会主義風の表紙も違うと思う。以前のブルーシルバーの表紙の方がまだ良い)

2015-01-29 17.32.42
同じく赤い新潮でもこちらは『芸術新潮』2月号
超充実の赤瀬川さん追悼大特集!!
(私のアンケート回答も掲載されてます。)

2015-01-29 19.22.18
斧!の漢字が一際カッコいいタイポグラフィは詩「ラスコーリニコフ」の一部。
萩原恭次郎の詩集『死刑宣告』より