日別アーカイブ: 2022年9月7日

私は子等に語る

先日のランド見学会にて塾生から「社会的テーマを扱う理由」を問われる。これについては青年期における衝動性が大いに関係していて、おぞましい人間界に対する憎悪が反射神経的に働き、私の創作意欲に直結してたようなところがあった。では今はどうかというと、現世の事柄については全くバカバカしく思えて対等に付き合う気力がない。と私は子供たちに語った。

〈人間の偉大なところ、それは彼が目的ではなく橋たるところにある。〉これは私の好きなニーチェの言葉だ。学校では「目標を持ちなさい」と向上心を教育されるが、漠然と「橋になりなさい」と先生に言われたら抽象的すぎて子供は困るだろう。
私にとって無目的の先生である鴨長明を引き合いに、非生産的に縮小してゆくグータラ生活を綴っただけの800年前の随筆『方丈記』がなぜ現在も学校の教科書に載っているのか?と子供たちに問う。
私が思うに、時空を跨いで自由に往来できる創作物のような存在が「橋」であり『方丈記』はその資格を十二分に備えた「橋」なのだ。目的とは執着の一種だ。有益でないのに捨てられることなく後世に残り続ける。特段の目的を持たなかった鴨長明に対して最高の評価だと思う。(私の作品もかくありたい)

〈こころの文庫〉中学1年用
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初めて現代語訳方丈記を読んだ (佐藤春夫による冷徹な訳が素晴らしい)
ヤドカリを手本に自分に見合った家を良しとしていたが、ヤドカリとは逆に引越す毎にどんどん家が小さくなり終いには3m四方ほどの空間に!仮住まいの予定だった方丈庵に早5年、「今この草庵を愛するも悪行であり、この閑寂に執着するも罪障に相違あるまい。」と無明界に堕ちる覚悟を決めて、ただ慰み程度に念仏を3回唱えてこの随筆は終わる。
『発心集』では執着からの解放、それ即ち往生と書かれていたが、狭さと静かさに安住することすら呵責があるのなら…私も風間ランド愛を断たない限り往生は望めない。人畜無害な生活ですら悪なのか?「幸福とはなんだろう?」私は子供たちに問うてみた。