有形か無形か?

尾形亀之助作の寓話「形の無い国」の中で描かれた、輪郭のない国家「無形国」の暗喩するところを自分なりにまだボンヤリと考えています。
無形国とは何なのか?亀之助がこれを書いた頃は、関東大震災からやっと7年経過し「帝都復興祭」が大々的に催され、文化にも政治にも日本が国際的な自信を持っていたモダニズムの時代です。震災前には芸術グループ「マヴォ」に属していた亀之助ですが、アナキズムやプロレタリアに傾倒していくメンバーに嫌気がさしてマヴォから離れたぐらいだから、たぶん組織的な熱気やイデオロギーとかが苦手な消極的個人主義者だったのだと思います。社会的な熱風に巻き込まれるのを良しとせず、超ぐーたらディレッタントとして餓死上等!のシラけた立場から見た騒々しく拡張する世界。それが輪郭を持たない抽象的「無形国」なのではないでしょうか?

昨日、東日本大震災から4年目を迎えましたが、私は亀之助の近代国家像としての無形国とはまた違う意味で、この4年で社会が「無形化」してるような気がします。細胞壁の無い細胞=無形国の中枢を個人に置き換えて考えてみると、核である「私」は「細胞質基質」の支持体を無限に増加させることで居場所をキープし得る。しかし細胞壁を持たない無形の社会で、どれだけ自分を取り巻き支える細胞質基質を維持し増やせば良いのか?疲弊と不安感が伴います。… 3・11の震災であっという間に形ある財産が失われるのを目の当たりにし、これからは人との絆や心の交流が大切だ。という痛切な実感は、万人がSNSを普通に利用する社会を確固たるものにしたけど(当方不参加)フォロワーの数とかで人気を量られたり、無限の繋がりが逆に恐怖なかんじがします。私は小心者なので、そんな一喜一憂に堪えられそうにない。(激しく一方的な自己完結ブログ「窓外」=地下生活者の手記が限界だ!)
人との繋がりという「無形の財産」への偏重は「有形」の価値を下げている!とそこらへんをブラブラ散歩してても思います。商店の店先は出力で簡単に作られたポスターや切り文字で仮設的に飾られて、道行く人の服装も「モテ」や「らしさ」等の好感度を基準にしたハミダさない身だしなみで趣味が無い(故にベージュ色が流行る)。スマホなどの繋がることができる自己表現ツールさえあれば、表面的なデザインでのコミュニケーションなんて無用なのかもしれない。そうなってくるとデザインもトレンドも要らなくなってくるということか〜なんと醜悪で退屈な社会!近代悪は嫌いになってもモダニズムは嫌いにならない、むしろ大好きな私としては退屈で死に至ってしまいそうだ〜。退屈&絶望デス!

「熱情的な時代は嵐のように前進してゆき、引き上げたり、突き落としたり、建てたり、壊したりするのにたいして、反省的で情熱のない時代は逆のことをする。それは窒息させ、妨害し、水平化する。水平化することは、揚棄することをすっかり止めてしまう、静かな、数学的な、抽象的な働きである。」…読みはじめた本から拾ったばっかりのキルケゴール青年の言葉に共感します。水平化する抽象的社会。茫洋と拡張する不安から、独善的な自警団と化し善民を装うトモダチ社会。
「熱情的時代」がモダニズム的だとして批判されても、水平化よりどんだけマシか?水平化する文化は貪欲なアウフヘーベンにも退廃にも至らない。安全な低空飛行が、実は静かな墜落の過程だったと後で気づくこともあるやもしれぬ。(その時は死に至ってるかもね?)
「かたち」で時代を語る事が不必要(不可能)な今が、現代の無形国であるなら、物質大好きの自分としては「意識的有形主義」を意識するしかない。それは決して「ユル」くない実行なのです。

2015-03-12 02.38.56
ユルくない昭和初期の構築的フォルム!!!
磨りガラスの時計は「国民教育新聞社」の記念品(昭和5年頃)
アンチモニーの時計は「登喜和会(ニットの協会)」の記念品(昭和7年)
何故か「鵜飼い」がデザインされてますが、鵜はニュージーランドのキウイ似です。