尾形亀之助は、無頼な生活による持病の悪化で昭和17年に42歳の若さで衰弱死しました。生前に「餓死自殺」についての随筆を書いています。「極力働かない」「動かない」ことを考えさせられる興味深い文章です。ちょっと長文ですが紹介しますね。
『無形国へ』 尾形亀之助
降りつづいた雨があがると、晴れるよりは他にはしかたがないので晴れました。春らしい風が吹いて、明るい陽ざしが一日中縁側にあたつた。私は不飲不食に依る自殺の正しさ、餓死に就て考へこんでしまつていた。
最も小額の費用で生活して、それ以上に労役せぬことーー。このことは、正しくないと君の言ふ現在の社会は、君が余分に費ひやした労力がそのまま君達から彼等と呼ばれる者のためになることにもあてはまる筈だ。日給を二三円も取つている独身者が、三度の飯がやつとだなどと思ひこまぬがいい。そのためには過飲過食を思想的に避けることだ。そして、だんだんには一日二食以下ですませ得れば、この方法のため働く人のないための人不足などからの賃銀高は一週二三日の労役で一週間の出費に十分にさへなるだろう。世の中の景気だつて、むだをする人が多いからの景気、さうでないからの不景気などは笑つてやるがいいのだ。君がむだのある出費をするために景気がよい方がいいなどと思ふことは、その足もとから彼等に利用されることだけでしかではないか。働かなければ食へないなどとそんなことばかり言つている石頭があつたら、その男の前で「それはこのことか」と餓死をしてしまつてみせることもよいではないか。又、絹糸が安くて百姓が困ると言つても、なければないですむ絹糸などにかかり合ふからなのだ。第三者の需要に左右されるやうなことから手を離すがいい、勿論、賃銀の増加などで何時ものやうにだまされて「円満解決」などのやうなことはせぬことだ。貯金などのある人は皆全部返してもらつて、あるうちは寝食ひときめこむことだ。金利などといふことにひつかからぬことだ。「××世界」や「××之友」などのやうに「三十円収入」に病気や不時のための貯金は全く不用だ。細かいことは書ききれぬが、やがて諸君は国勢減退などどいふことを耳にして、きつと何んだかお可笑しくなつて苦笑するだらう。くどくどとなつたが、私の考へこんでいたのは餓死に就てなのだ。餓死自殺を少しでも早くすることではなく出来得ることなのだ。 (詩神第六巻第五号 昭和5年5月発行)
「餓死」でまず連想するのは、即身成仏や補陀落渡海といった宗教的な行為ですが、亀之助の意味した餓死は「経済社会に参加しない」意志の実行です。それは、経済至上主義や成長神話に対するアンチテーゼであり後ろ向きな挑戦状のようにも思えます。そして本当に「餓死」を実行してしまった一人に亀之助と同時代の作家・辻潤がいます。一般社会の座標を持ってすれば地に墜ちた「低人」としての死様は、自身に即する=即身であり、反社会的な絶望の体現だったのかもしれません。
…..クリスマスケーキやおせち料理の豪華さや売れ行きで景気をはかるこの年の瀬に、ジリ貧上等「先細り願望」に思いを馳せるのもまた一興かと…。メリークリスマス!

「現代詩文庫 1005 尾形亀之助詩集」思潮社 1980年発行
働かなければ食えない、と言っている奴がいたら「それはこのことか!」と言って餓死をしてみるのも良い。…..そう簡単には死ねない。
>>>また告知!<<< 「右肩上がりシリーズ」の旧作も出品!『プチブル』展は1月9日から
於:無人島プロダクション←プレスリリース!!!