「国民学校との関連性」なんて書くと、あたかも健康学園が皇民錬成教育の残滓であるかのようですが、誤解を招く前に言っておきます。けして学園はそのような愛国心を強要するような場所ではなかったです。君が代を歌った記憶も無いし(今みたいに君が代斉唱や日の丸掲揚をおしつけられる時代ではなかった。君が代も国歌じゃなかったしね〜)もちろん教育勅語も読みませんでした!
一番生徒数が多かった5年生のクラスでも10人ぐらいだったので、どちらかというと村の分校みたいな感じでしたね。並の勉強に追っ付かなくなった落伍児童が相手なので先生も優しかったです。劇団四季最高っ!さあ君達も一緒に!といって授業そっちのけで演劇指導ばっかりする先生も野放し状態だったし…義務教育的な圧迫感はありませんでした。
ただこの分校・健康学園の目的が「本校クラス内の問題児の健全化」である以上、それを果たすための特別な教育が必要になる訳です。最初に紹介した「古典」の学習、茶道や琴などの指導は、その修養のひとつだったのでは?と思うようになりました。そこで改めて「健康学園」設立の歴史を分かった範囲で考えてみることにしました。
私の入園していた三浦健康学園は、戦後の昭和39年創立です、この健康学園と改名された「養護学園」の生い立ちを知るには歴史が浅いので、ネットで調べたなかで一番古かった「豊島区立竹岡健康学園」(千葉県富津市:2014年3月廃園)を参考に探って見たいと思います。
この竹岡健康学園(旧竹岡養護学園)は昭和10年(1935年)創立で、昭和8年の皇太子(平成天皇)生誕の記念事業の一つとして建てられたそうです。健康優良児事業でも日本一に選出された児童の皇族(皇太子や宮様)との謁見があったり、長津田の「こどもの国」の開園も皇太子ご成婚記念事業だったりと、児童の健全化イベントと皇室のつながり少なからずありますね。天皇、皇后両陛下は国家の行く末を担う子供達の健やかや成長を願ってますよ〜という親心的な?健康学園設立も「奉祝事業」の一つだった事はとても興味深いです。
年表の史実を重ねて考察するのは安易すぎて気がすすみませんが、まあ手懸かりがこれぐらいしかないのでお許しあれ…。
竹岡健康学園が設立した昭和10年前後の状況をみてみると、昭和6年に満州事変が勃発し、7年に満州国を設立、翌年の8年、これを機に日本は国際連盟から脱退し孤立を深めて行きます。10年、岡田内閣の国体明徴政府声明で皇国のビジョンが明確に示され、11年には2・26事件が勃発、12年になると日中間の紛争は「支那事変」という公式名がきまり、戦時下であるという自覚が促されるようになりました。この年に日独伊三国防共協定が結ばれ、大本営が設置されてました。そして13年には近衛内閣によって「国家総動員法」が公布。まさに一億総動員の戦争体制『新体制』が強要される時代になったのです。
この『新体制』のもと教育の現場では、国民の国防力、戦闘力向上と皇民錬成を目標とした教育指導に偏向していきました。そのなかで特に体育教育に重点が置かれるようになり、国民精神総動員運動として体力強化の「鍛錬論」が確立されました。昭和13年には厚生省が設置され、体育教育は文部省と厚生省の二本柱で押しすすめられ、国民の体力や体位等は国家の管理下に置かれるまでになりました。昭和11年に夏期オリンピック招致に成功し、昭和15年の開催が決定した東京オリンピックも、この年に軍部の圧力によって中止することとなりました。戦時下「体育競技」というものは、あくまでも「国防競技」でありスポーツとしての競技は、非常時に相応しいものではなかったのです。
例の竹岡健康学園が設立した昭和10年の一年前に、大正12年に天皇から下された「国民精神作興ニ関スル詔書の」奉戴10周年記念として「全国小学校教員国民精神作興大会」が行われました。この年12月には皇太子誕生が予定されており、その奉祝も兼ねていたそうです。そしてこのイベント以降は「勅語奉読会」が全国的に開催され、これは後の「国民学校」化への大きな準備となったようです。そんな国家的啓蒙イベントのさなか、健康学園(養護学園)創立したという訳ですね。
昭和16年に国民学校令が公布されて、尋常小学校は国民学校へと改組されました。皇国民錬成という大きな目的のほかに、学区制の導入や、貧困児童の就学義務免除の廃止(家庭の労働力として就学できなかった子供が大勢いたんですね)、心身異常児童(知的障碍児のことでしょうか?)のための養護施設の設置、などが導入されあながち悪い面ばかりではなさそうです。
この「養護施設の設置」というのが養護学園=健康学園と関係がありそうですね。手元に昭和15年発行『国民学校 皇民錬成の訓育』という国民学校のマニフェストのような本がありますが、このなかの「訓練・養護・鍛錬に関する施設と制度」という項目には以下のように書かれています。「国民学校要綱には左の如く訓練・養護・鍛錬を重んじている。 身心一体ノ訓練ヲ重ジテ児童ノ養護・鍛錬ニ関スル施設及制度ヲ整備拡充シ左ノ事項ニ留意スルコト(一)特ニ都市児童ノ為郊外学園ノ施設ヲ奨励スルコト。…都市児童の為の郊外学園・学校給食・学校衛生職員制度等の整備と拡充を要求している。学校園・林間又は臨海の集落・郊外の学園農園・田園寮に於ける勤労作業の如きは特に都市の児童に必要である….」この部分を読むとなるほどな〜と思い当たるところがあります。私の入所していた健康学園には区内の児童が利用する「臨海学校」の施設が併設されていましたし(自分の学校が宿泊する日、同級生と会うのが超はずかしくて嫌だった!)、勤労作業というほどでなかったが、隣の農家の手伝いみたいな事をした覚えもあります。
このような流れで考えると、健康学園の「体力向上重視」「精神の鍛錬」「都市児童の健全化」を基本とした教育の原点が、この戦時下における教育方針や国民学校にあると憶測するのにさほどの飛躍ではないのでしょうか?そして国民学校の訓育要綱のひとつ「精神の涵養」を念頭に置くと、皇国の道に統一された大国民的人格の錬成として重視されていた「気風刷新、趣味改善」=西洋文化にかぶれるな!的なところは、百人一首、古文の暗誦、お茶、琴、袴着用の応援などに「形骸化」し継承されていたのでは…と推測されます。(情緒安定カリキュラムとしてかな?)
しかし健康学園は、東京のマンモス校(第二次ベビーブーマー。全校児童1500人)の全体主義的な指導よりはるかに自由でしたし居心地はよかったです。戦前戦中の教育指針がイデオロギーだけスッポリと抜けたかたちで、半島の片隅に「健康学園」として息づいてた…今思えば、そんな不思議なエアポケット空間だったのかもしれません。
『国民学校 皇民錬成の訓育』岩瀬六郎 著、明治図書株式会社発行 昭和15年
函裏面。「国民学校に培ふ新訓育の絶好指針」
国民学校令が公布される前から指針はハッキリ決まってたんですね。