月別アーカイブ: 2014年5月

ダダそれだけ…

作品を出品していた横浜美術館の「魅惑のニッポン木版画展」も、昨日で好評のうちに終了となりました。作品を見て下さった方、わざわざトークを聞きに来て下さった皆さま。誠にありがとうございましたー!!
オープニングやトークの日にはゆっくりと展示を見ることができなかったので、先週あらためて観てきました。そして気になっていたコレクション展「ともだちアーティスト」をじっくり鑑賞できて大満足です。すごく良い企画展だと思いました。作家一人一人の個性もさることながら、それをさらに際立たせる「ともだち」相関図と時代背景を同時に鑑賞することでグッと奥行きが増しますね。わたしの大好きなダダからシュルレアリスムの一連の流れも特集されてたし(ピカビアとデュシャンの作品もあったら最高なのにな)、エルンスト、グロッス、ディックス、ベルメール(変態性反体制!)の作品も今更ですが「やっぱり良い」と再確認をした次第です。
そして一番の収穫は1923年にトリスタン・ツァラが催した「毛の生えた心臓の夕べ」で上映された映像3作品が観れたこと!ハンス・リヒター『リズム21』は当時の実験映像としての価値以上の飽きのこない新鮮さです。しゅ〜しゅるるる〜の四角形と白黒に視神経が和みます。
3本の映像はサイレント上映でしたが(当時も無声だったのでしょうか?マンハッタにはミヨーのピアノ楽曲が似合いそう。)この「毛の生えた心臓の夕べ」ではブルトン一派の「殴り込み」という大騒動が起きたことを想像すると、こんな静寂ではなかったはずですよね。私、ツァラ様のためなら一発ぐらい殴られてもいいなっ!サティ、ミヨー、ストラヴィンスキーの演奏もあったというのだから!もしその場に居合わせていたら卒倒必至の感激だったと思う。タイムマシンに是非ともお願いをしたいものです…。

妄想ついでに今日はツァラ様の肖像を描いてみました。「チューリッヒからキレッキレのダダ野郎がやってくるー!!!」と鳴り物入りでパリに登場したツァラですが、その容姿を一目見たパリっ子たちは「な〜んだ、鼻眼鏡をかけた日本人みたいだな…ガッカリ。」という失礼千万な反応だったようです。パリに来る前の写真では普通のメガネなのに、パリ時代はモノクル(片眼鏡)を着用しているのは、そんなパリっ子の期待に添うための自己演出だったのでしょうか?たしかにモノクルは超格好良すぎです!一筋縄ではいかないダダイスト、曲者の雰囲気をプンプン臭わせてます。
藤田嗣治もエキセントリックなファッショニスタとして社交界デビューしながら不眠で絵をガンガン制作していたそうですし、パリの「異邦人」の努力は並々ならぬものです。世界中の野心溢れる芸術家が集うパリ社交界で目立つためにはキャラクター作りも必要だったのですね。

ツァラ
全国のツァラファン女子の皆様お待たせしましたー!(待ってないか)

鍋の乱5・29

桜新町駅前の「すき家」が「リニューアルに伴い一時閉店」してから一ヶ月以上たつ。4月の半ば、ある日突然閉店したままになって、その時に店の入り口に張り出さてれた紙には『本日の営業は終了しました。次回のお越しをお待ちしております。』と書いてありました。この張り紙を見ても一体何が起きたのかさっぱり分かりませんでした。このお店は普段24時間営業だし、フランチャイズで滞り無く食材がとどくのだから「今日の営業」が終わるときなんてありえません。

そして10日後ぐらい経ってから、また入り口をみると例の張り紙は『バイト募集中!!一緒に日本1のすき家を作りましょう。』という紙に張り替えられてた!日の丸のイラスト付き(笑)なんだこれ?….この閉店はリニューアルが目的で前向きなんですよー!というポジティブなムードを全面に押し出したイケイケ感がかえって怪しい。この段階でやっとリニューアルの本当の理由が薄々わかってきました。
ネットで検索したら、同時多発的にバイトの大量辞職(反乱!)によって「リニューアル閉店」を余儀なくされているすき家が全国にいくつもあるらしい。ゼンショー側は実情を明確にしないものの180店ものすき家がパワーアップに備えて閉店中!「店舗総数が多いから閉店が目につくのだろう。」と社長は説明してるが、この行き当たりばったりの張り紙は、最悪の現場の対応に困り果てた中間管理職の社員が苦肉の策で書いたとしか思えん。社長は原因をうやむやにしたまま、各店舗の店長クラスの社員がこの「人員不足」の解消と再開店を任されているのだから大変。中間管理職地獄!

「ワンオペ」ワンオペレーションと呼ばれる、一人で店を仕切らなければならないバイト一名だけのシフト時間帯があること(だから強盗に狙われる)、それだけで大変なのに現場を無視して手間のかかる新メニュー「牛すき鍋定食」を導入したこと、消費税増税で他店が値上げをするなか、すき家だけが「ビジネスチャンス」とばかりに値段を据え置いたこと….引き金になる要因はたくさんあった訳で・・・。
以前、大戸屋で夕飯をすまそうと入店したら「すみません…今日はバイトが少ないのでお待たせしてしまうのですが…。」と店員に言われ、シブシブ引き返したことがあります。もう今日は来ないで下さい!勘弁して下さい!という蒼ざめた顔色を見て入店するわけにも行かず….(でもその時は「え〜、そっちの都合でしょ知らないよー。」と不満に思いましたが。)バイトが里帰りしていない正月とかにファミレスを一人で切り盛りする社員がいたり(たぶん店長)。「バイト」はフランチャイズの外食産業にとって「血液」のようなものです。たかがバイト、されどバイト。
いまの日本で「労働組合」など起ち上げて、雇用主にたてつく若者などいないだろう、と甘く見て高を括ってたのかもしれません。ネットの力おそるべし!プロレタリア文学のようなヒロイズムは存在しなくとも、現場の怒りは面倒な組織作りなど一足飛びにこえて実行されたということです。

で…。フェイスブックや掲示板で5月29日に全国一斉「すき家スト決行!」の情報が流れてますが、決行されるでしょうか?やるなら徹底的に貫徹せよ!!わ〜い。

「同志はどこにでもいる!5・29は遂にきた!進め!プロレタリアの若者!」ゴー・ストップ!

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「バイト募集中!!一緒に日本1のすき家を作りましょう。」空元気いっぱいの張り紙。
「お客様各位 設備点検のため一時クローズいたします。…すき家 店長」閉店じゃないよ。
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工事している様子はまったくありません。予定は未定。
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『あなただけが働く時間帯があります、ワンオペ。』だったらヤダな…。
このポスター啓示後、また時給アッーープ!いっきにプラス100円も!焦ってる〜
「ここブラックでしょ、ブラックだよね。」と笑って立ち去る日体大生たち。皆その認識です。
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ここは駅の出口のすぐ横で、本当に立地がいいんです。
でも前に入ってた回転寿し屋もすぐに閉店したし、なんか「気」が悪いのだろうか。
呑川の源流が多分この下あたりだから水神様の祟りとか?な〜んて邪推しすぎ。



 

タイムカプセル

この前まで森美術館で開催されてたアンディ・ウォーホル展の会場に「タイムカプセル」というコーナーがあり、生前ウォーホルが蒐集していた雑誌や小物など、作品制作のインスピレーションの源になったような品々が展示されてました。ヴォーグ、ホテルの便箋、世界のお土産、香水瓶…さすが時代の寵児。ファッションリーダーならではのセンスの良さ、ダンボールを使った展示方法もセレショみたいでオシャレ。「もし私が死んだら私の蒐集物も展示されるかな?」と一瞬妄想したものの、アンディ工場長のような大スターともなれば大回顧展も開催されて名刺一枚でも有難く飾られましょうが・・・ありえないな。

先日の「東京蚤の市 at 京王閣」ではいつもの卑屈な反抗心から「けっ。シャレオツだな!」と人畜無害な暮らし系に対する敵意を剥き出しにしてしまいましたが(暮らし系の皆様には大変不快な思いをさせてスミマセン…)、今日は心を入れ替えちょっとオシャレにすり寄って、古き良き時代のお気に入りを紹介しま〜す。(拾ったテレビ、拾った看板、拾った計算機とかは今回はナシ!)

流線型。
ヤフオクと南部古書会館で仕入れた流線型♡あぁ!流線型の時代に生まれたかったー。
あじあ号不在がさみしい限りです…満鉄人で我慢しておこう。機関車C55型も欲しいところ。
cord
AVON社の髭剃りトニックのガラス壜。[CORD'37] ぬるっとした車体がたまらな〜い。
とても気に入ってナデナデと猫のように撫でくりまわしてたら塗装が剥げてきた。自粛!
(壜に液体が入ったままなので、お尻のあたりから古き良きオジさんの香りが漂います。)
CORD37
プラスチックの街 駆け抜けろ!(ビルは貯金箱)

蚤の市

日曜日。五月晴れさわやかすぎる一日、陽子さんと連れ立って「東京蚤の市at京王閣」に行ってきました。以前はよく原宿・東郷神社の骨董市に行って奉公袋や君が代の皿、軍隊の杯など買ってましたが、その市が無くなってからはアンティーク探しなどしてないので久しぶりです。
京王閣に着くと、普段ギャンブラーのオッさん達で賑わっているであろう競輪場には『暮らし系』の大群衆!右を見ても左を見ても自然色の大洪水。ストローハット、ボーダーTシャツ、リネンのチュニック、コットンのクロップドパンツ、ビルケンのサボ…。特にストローハット率高し!こんなにクウネル、ソトコト人口がいるとは知らなかったー。自然派もここまで集合すると最早脅威…
集ったお店も商品もいわゆる暮らし系テイストが中心でした。『古き良きものを愛でる人々が集う一大マーケットへようこそ!』とチケット(入場料400円)兼マップに書いてあります。わたしも古いもの大好きです。『古き悪しきもの』ですが。
こりゃブルーシートに並べたら真性ゴミ、と思える品々が草木染めのリンネルの上にジョセフ・コーネル風に並べられてオシャレ(高っ)。本当にモノも演出しだいだな〜と感心し、このアートチックな販売方法をアートに逆輸入せねばならんなと勉強になった次第です。(本当かよ)
廃材の板(一枚1000円)と金具(サビが付加価値!)を購入し、その場で棚をつくるコーナーがあったが、たぶん材料一揃えで1万円近くかかるのではないでしょうか?この商売ボロいな。
そこらへんの解体現場や寂れた金物屋で仕入れたタダ同然の材料が、シャビーというオシャレ要素と、世界に一つだけという手作り価値でこんなに高く化けるのだから大したものです。
我が家は築60年。家全体がシャビーです、もちろん本当の意味で。毎日出没するネズミや水出っぱなしのトイレなど、骨の髄から「古さ」が堪能できますよ!
感じのいい文鎮があれば欲しかったのですが…暮らし系チョイスでは無いらしく残念。収穫は少なかったけど、こんな巨大マーケットがあるのか〜と新発見の一日でした。
(古書市もあったが読書カフェ風。この本は南部古書会館なら200円なのに…と一人ごちる。)

骨董2
歯車一個の相場は1000円。ペーパーウェイトとして使うのが「工業系」オシャレです。
骨董1
このファイヤーキングのマグが欲しかったけど3500円。高いからやめた。
ベンツ
「レトロカー」と呼ばるる中古車。ベンツ85万円也…高いのか安いのか分かりません!
ブローチ
結局、東京オリンピックのグラフ誌2冊とこのブローチ1個が本日の収穫。
古いセルロイド、ベークライト、プラスチックは良いですねー。合成樹脂最高。

健康学園(4)

「国民学校との関連性」なんて書くと、あたかも健康学園が皇民錬成教育の残滓であるかのようですが、誤解を招く前に言っておきます。けして学園はそのような愛国心を強要するような場所ではなかったです。君が代を歌った記憶も無いし(今みたいに君が代斉唱や日の丸掲揚をおしつけられる時代ではなかった。君が代も国歌じゃなかったしね〜)もちろん教育勅語も読みませんでした!
一番生徒数が多かった5年生のクラスでも10人ぐらいだったので、どちらかというと村の分校みたいな感じでしたね。並の勉強に追っ付かなくなった落伍児童が相手なので先生も優しかったです。劇団四季最高っ!さあ君達も一緒に!といって授業そっちのけで演劇指導ばっかりする先生も野放し状態だったし…義務教育的な圧迫感はありませんでした。
ただこの分校・健康学園の目的が「本校クラス内の問題児の健全化」である以上、それを果たすための特別な教育が必要になる訳です。最初に紹介した「古典」の学習、茶道や琴などの指導は、その修養のひとつだったのでは?と思うようになりました。そこで改めて「健康学園」設立の歴史を分かった範囲で考えてみることにしました。

私の入園していた三浦健康学園は、戦後の昭和39年創立です、この健康学園と改名された「養護学園」の生い立ちを知るには歴史が浅いので、ネットで調べたなかで一番古かった「豊島区立竹岡健康学園」(千葉県富津市:2014年3月廃園)を参考に探って見たいと思います。
この竹岡健康学園(旧竹岡養護学園)は昭和10年(1935年)創立で、昭和8年の皇太子(平成天皇)生誕の記念事業の一つとして建てられたそうです。健康優良児事業でも日本一に選出された児童の皇族(皇太子や宮様)との謁見があったり、長津田の「こどもの国」の開園も皇太子ご成婚記念事業だったりと、児童の健全化イベントと皇室のつながり少なからずありますね。天皇、皇后両陛下は国家の行く末を担う子供達の健やかや成長を願ってますよ〜という親心的な?健康学園設立も「奉祝事業」の一つだった事はとても興味深いです。

年表の史実を重ねて考察するのは安易すぎて気がすすみませんが、まあ手懸かりがこれぐらいしかないのでお許しあれ…。
竹岡健康学園が設立した昭和10年前後の状況をみてみると、昭和6年に満州事変が勃発し、7年に満州国を設立、翌年の8年、これを機に日本は国際連盟から脱退し孤立を深めて行きます。10年、岡田内閣の国体明徴政府声明で皇国のビジョンが明確に示され、11年には2・26事件が勃発、12年になると日中間の紛争は「支那事変」という公式名がきまり、戦時下であるという自覚が促されるようになりました。この年に日独伊三国防共協定が結ばれ、大本営が設置されてました。そして13年には近衛内閣によって「国家総動員法」が公布。まさに一億総動員の戦争体制『新体制』が強要される時代になったのです。
この『新体制』のもと教育の現場では、国民の国防力、戦闘力向上と皇民錬成を目標とした教育指導に偏向していきました。そのなかで特に体育教育に重点が置かれるようになり、国民精神総動員運動として体力強化の「鍛錬論」が確立されました。昭和13年には厚生省が設置され、体育教育は文部省と厚生省の二本柱で押しすすめられ、国民の体力や体位等は国家の管理下に置かれるまでになりました。昭和11年に夏期オリンピック招致に成功し、昭和15年の開催が決定した東京オリンピックも、この年に軍部の圧力によって中止することとなりました。戦時下「体育競技」というものは、あくまでも「国防競技」でありスポーツとしての競技は、非常時に相応しいものではなかったのです。
例の竹岡健康学園が設立した昭和10年の一年前に、大正12年に天皇から下された「国民精神作興ニ関スル詔書の」奉戴10周年記念として「全国小学校教員国民精神作興大会」が行われました。この年12月には皇太子誕生が予定されており、その奉祝も兼ねていたそうです。そしてこのイベント以降は「勅語奉読会」が全国的に開催され、これは後の「国民学校」化への大きな準備となったようです。そんな国家的啓蒙イベントのさなか、健康学園(養護学園)創立したという訳ですね。
昭和16年に国民学校令が公布されて、尋常小学校は国民学校へと改組されました。皇国民錬成という大きな目的のほかに、学区制の導入や、貧困児童の就学義務免除の廃止(家庭の労働力として就学できなかった子供が大勢いたんですね)、心身異常児童(知的障碍児のことでしょうか?)のための養護施設の設置、などが導入されあながち悪い面ばかりではなさそうです。

この「養護施設の設置」というのが養護学園=健康学園と関係がありそうですね。手元に昭和15年発行『国民学校 皇民錬成の訓育』という国民学校のマニフェストのような本がありますが、このなかの「訓練・養護・鍛錬に関する施設と制度」という項目には以下のように書かれています。「国民学校要綱には左の如く訓練・養護・鍛錬を重んじている。 身心一体ノ訓練ヲ重ジテ児童ノ養護・鍛錬ニ関スル施設及制度ヲ整備拡充シ左ノ事項ニ留意スルコト(一)特ニ都市児童ノ為郊外学園ノ施設ヲ奨励スルコト。…都市児童の為の郊外学園・学校給食・学校衛生職員制度等の整備と拡充を要求している。学校園・林間又は臨海の集落・郊外の学園農園・田園寮に於ける勤労作業の如きは特に都市の児童に必要である….」この部分を読むとなるほどな〜と思い当たるところがあります。私の入所していた健康学園には区内の児童が利用する「臨海学校」の施設が併設されていましたし(自分の学校が宿泊する日、同級生と会うのが超はずかしくて嫌だった!)、勤労作業というほどでなかったが、隣の農家の手伝いみたいな事をした覚えもあります。

このような流れで考えると、健康学園の「体力向上重視」「精神の鍛錬」「都市児童の健全化」を基本とした教育の原点が、この戦時下における教育方針や国民学校にあると憶測するのにさほどの飛躍ではないのでしょうか?そして国民学校の訓育要綱のひとつ「精神の涵養」を念頭に置くと、皇国の道に統一された大国民的人格の錬成として重視されていた「気風刷新、趣味改善」=西洋文化にかぶれるな!的なところは、百人一首、古文の暗誦、お茶、琴、袴着用の応援などに「形骸化」し継承されていたのでは…と推測されます。(情緒安定カリキュラムとしてかな?)
しかし健康学園は、東京のマンモス校(第二次ベビーブーマー。全校児童1500人)の全体主義的な指導よりはるかに自由でしたし居心地はよかったです。戦前戦中の教育指針がイデオロギーだけスッポリと抜けたかたちで、半島の片隅に「健康学園」として息づいてた…今思えば、そんな不思議なエアポケット空間だったのかもしれません。

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『国民学校 皇民錬成の訓育』岩瀬六郎 著、明治図書株式会社発行 昭和15年
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函裏面。「国民学校に培ふ新訓育の絶好指針」
国民学校令が公布される前から指針はハッキリ決まってたんですね。

トークがあります。

「健康学園シリーズ」の執筆にかまけてうっかり告知を忘れてました!!
明日、というかもうすぐ今日。5月10日、横浜美術館「魅惑のニッポン版画展」の会場にてギャラリートークを行います。時間は午後2時からで、30分間ぐらい作品の解説をします。
告知が遅れて大変恐縮ですが、興味のある方はぜひご来場下さい。よろしくお願いしま〜す!

ふるさと
平成博シリーズより「ふるさと創生館」
『魅惑のニッポン木版画』横浜美術館〜5月25日まで!

健康学園(3)

健康学園の朝は早い。6時に起床し布団をあげてから、宿舎の軒下に一列に並び、上半身はだかパンツ一丁の姿で夏は冷水摩擦、冬は乾布摩擦をします。「摩擦」というのは手ぬぐいで全身をゴシゴシこすって皮膚を鍛錬する健康法のことです。とても1982年の光景とは思えません!シュールすぎる!(アトピーの子も一緒にやっていたような気がする…。)
身支度し、朝食をとってから「登校」です。とはいっても一棟の施設内の一階が宿舎で、二階が学校なので、階段を上がるだけです。「登校拒否」をしようにも同じ建物内では難しいし、先生との関係も近く、登校拒否する児童はほとんどいませんでした。このように学校との距離を縮める工夫がされてました。教室は4、5、6年生が各1クラスずつで、全員あわせても30人たらずだったと思います。教室のほかは体育館や音楽室等は無く、図書室と「十四畳」と呼ばれてた和室のみがあり、十四畳では琴や茶道の指導などがありました。(幽霊が出るって噂があって超怖かった。)

授業は教科書をつかった学習のほかに、研究発表や演劇などの行事に重点が置かれていて、普通の授業よりもむしろ行事の方が記憶が鮮明なぐらいです。運動会では応援団の副団長になって、白袴に襷、鉢巻きの出立ちでエールの猛練習したり、アサリに寄生するメガロパ(蟹の幼生)の研究発表会や、劇団四季ファンの熱血教師の指導のもと「ふたりのロッテ」を上演(私は女中の役)。「よ〜うこそ皆さん、や〜あこんにちは〜♪」で幕開け!見に来た親達は健気なロッテに感涙してたっけ…..。等等イベント盛りだくさんなのです。ほかにも8キロマラソンや海での遠泳(カナヅチなので浜辺で見学)などキツイ体育行事もありました。
このような行事をとおして、一つの目標を皆で共有し協力して成功させる事で、本校では落ちこぼれだった児童達に、協調性と粘り強さと自信を身につけさせる指導が行われていたのです。

全寮制なので生活指導もキビしかったです。家族との面会は月に第四日曜日の一日のみで、訪ねて来た親兄弟と数時間だけ外出できます(ファミレスがご馳走!)。普段は園外に出るのは禁止、買い物は一ヶ月500円の予算内で、廊下に下げられた「買い物ノート」に所望の品(シャンプー、石鹸、鉛筆、消しゴム等)を記入し、保母さんに町から買って来てもらいます。最小限の私物しか持ち込めないので、無くなったらこのシステムで補充なのです。年に2回だけ町に買い物に行ける日がありましたが、慣れない買い物でテンパってしまい、使い道のすくない紫色と銀色のペイントマーカーを購入!同日に買ったチョロQ(フォルクスワーゲン)を紫と銀で塗ってカスタマイズしたが、寒々しい微妙なカラーリングに我ながらガッカリです。
学園は予算が少なかったのか、食事は贅沢な物ではなかったです。(茹でたマカロニにきな粉をまぶしたオヤツ「マカロニきな粉」に衝撃…)入所理由の一つが「偏食」なので食事は正直たのしくなかったです。自分なりに肉を食べない理由があっても、有無を言わさず毎日「食べなさい」「残したらダメ」と怒られ、拒否の態度をとれば「食べるまでテレビを見るのを禁止」のペナルティーです。みんながプロレス中継を観ているのを尻目に、ひとり肉とタイマン張りつづける辛さときたら!アレルギーや宗教で食事の制限がある人なんて世界中に沢山いるのに、何故ここまで強要するのか?当時から疑問でした。偏食も改善すべき重大な「わがまま病」と認識されてた訳です。
肉問題のほかにも食後の居残り指導がありました。箸の持ち方が「変だから直しなさい!」と小皿一杯の大豆が用意され、正しい持ち方で別の皿に全部の豆を移すように言われたが「今の持ち方が一番食べ物を運びやすいんです!」と反抗してやっぱり怒られた…。まあ結局は怒られる。

そんなこんなで、根っから反抗的態度なのでそう易々とは更生されず、たった一年間で学園を出て東京に帰ることになりました。中には健康優良児に華麗な変身をとげた児童もいたようですが…。
入所理由の喘息、偏食、登校拒否すべてが克服、改善されず(不穏分子のまま)、コンガリ健康児の日焼けもあっというまに色褪せ、もとのウラナリ少女に逆戻りしました。
一番たのしかった思い出は、みんなで砂浜で拾ったワカメとメカブに熱湯を掛けて「刺身」にして辛子醤油で食べたことです!あんなに美味しいワカメはあれ以来食べた事はありません!ワサビではなくカラシというのがオツですねっ。

こんな学童疎開のような生活も、今となっては貴重な体験だったと思います。戦時中の国民学校と健康学園の関連性を調べましたので、次回はそれを書こうと思います。(次回につづく。)
冷水摩擦

健康学園(2)

『健康学園(けんこうがくえん)とは、肥満や気管支喘息、偏食、病弱などの健康上の障害のある児童に、集団生活ときちんとした健康管理と教育によって、健康改善の機会を提供しようとする試み、もしくはそのための全寮制の教育施設のことをいう。』『制度的には、所属校の病弱特別支援学級という位置づけである。』以上、ウィキペディアより引用。

この健康学園の概要でわかるように、特別に養護支援を受けさせる対象は「肥満、気管支喘息、偏食、病弱」の4つに限られています。広義での病気は対象外で、あくまでも目的は治療ではなく改善なのです。なので医療設備はまったく用意されてません。私が入所してた学園には医者も看護士も常在していませんでした!喘息は呼吸困難で死に至るほどの大発作が起きるのに、これは危険!どうして問題にならなかったのだろう?のんきな時代でしたね〜。この学園を含めてほとんどがすでに廃園してます。こんだけズレた健康管理感覚なので当たり前ですが…。
なぜ、肥満、気管支喘息、偏食、病弱のみが改善すべき対象だったのか?1930〜96年の60年以上の長きにわたり朝日新聞が主催していた「健康優良児表彰事業」というメディア・イベントを考証し、児童の健康をめぐる政治性を考察した著書「健康優良児とその時代」(高井昌史/古賀篤)を参考にしながら考えると次のようなことが健康学園の方針にも反映されていることが分かります。

「健康優良児=健全」の概念も時代によって変遷し、戦前戦中は体力、体躯の向上を目的とし、「15年戦争に突入する状況下で、長期戦のための最も基礎的戦力としての人的資源」の有望な予備軍が健康優良児っだった訳です。そして健康優良児に表彰された児童は、徴兵の年齢に達する
と真っ先に戦場に送られ多くの健康優良児が戦死したそうです。戦後には新たに「健康優良学校」の表彰もはじまり更にエスカレート。終戦直後の栄養失調や衛生問題克服から、東京オリンピック開催によって、より国際化したなかで「外国人に負けない体力」をもったポジティブな理想的児童像が生まれ、そして高度成長期以降は、都市化で発生した「核家族」「外で遊ばない」「肥満」「公害病」などの不健全要素の排除が、この健康優良を促進するためのテーマになったようです。
これをふまえて考えてみると、私の入所していた施設は昭和39年(1964年)ちょうど東京オリンピック開催の年に開園したので、まさに児童の体力向上気運が盛り上がっていた時期だと言えます。そして、それ以降に浮上した「不健全な都会ッ子」の問題点は、そのまま健康学園が「改善」を目指した対象だといえます。
肥満、気管支喘息、偏食、病弱(私の時代にはアトピー性皮膚炎の子もいました)これらは都会生活の弊害で、核家族内での甘やかしでなった「わがまま病」なので、集団生活によって改善する事が肝要なのです。信じられないのことに、今では医学的に炎症によって起きることが解明されている喘息も、当時は「わがまま病」だと思われているフシがありました。(公害が原因の場合は別ですが…)実際に、近所の主婦連から「仮病だ」「過保護だ」とさんざん陰口をたたかれ、白い目で見られて母親がハブられた!それに学校を休んだ日に外出しただけで「風間さんがデパートをうろついてた」って学校に密告された!糞!(無知と偏見はイヤだねぇ)
…..話が脱線しましたが。とにかく自己管理の出来ない肥満児、意志薄弱な喘息持ち、好き嫌いをする偏食児童(そんなに問題?)、病弱という建前の登校拒否児、それらを克服する力のない子供達は教室の健全さを乱す不穏分子です。不穏分子を一挙に引き受け、正常化して元の教室に帰す。それこそが健康学園の役割です。

健康学園の存在意義がわかってきたところで、次は実際の学園生活と、ちょっぴり国粋的な教育の根っこを考えてみようと思います。(次回につづく。)

 

 

健康学園(1)

なんとな〜く教育のことを考えてるなか、むかし経験した不思議なことを思い出しました。いままで全然気にしてなかったのですが…。
小学校3年のとき喘息を発病してからは学校にほとんど登校せず、いよいよ普通の学級では手に負えなくなったので5年生で「半島送り」となりました。世田谷区内の健康不良(喘息、肥満、偏食、不登校)の4〜6年生の児童が集められて「教育」を受ける『健康学園』という施設です。都会の汚れた環境から離れ、三浦半島の清浄な海風と太陽光線そそぐ健康的環境のもと、健康な児童になりましょう!という場所です。9才から12才ぐらいの子供が親から隔離されて鍛えられます。といってもあくまでも公立の施設ですから、戸塚ヨットスクールのみたいに過酷なスパルタ教育ではありません。私はそのとき10才でしたが、家では「学校に行け」「行かない」の押し問答を毎朝繰り返し、とても気詰まりな状況だったので、学校に行くより施設に入ったほうがいいや〜と思い担任に勧められるまま入園しました。

入園当日、一番ビックリしたのは生徒の髪型です。男の子はちょっと伸びた坊主頭で、女の子はお釜をかぶせたような変な短髪。そして全員がノースリーブにショートパンツで真っ黒に日焼けしています。「ププッ!なに〜変なのっこの子たち!」と笑えたのですが、数日後、町から派遣されて来た理髪店のオバアちゃんが児童全員の散髪を担当していることが判明!男子は「丸刈り」女子は「乙女刈り」と一律決まっていてオーダーは出来ません!有無を言わさずアバンゲールな国民学校ヘアへと刈られます。私はどうしてもイヤで、オバアちゃんに懇願してワンレンのおかっぱにしてもらいました…これも戦前風で相当ヘンでしたが。

でもって、授業はもちろん体育が中心で「体力向上」を目的とした鍛錬メーニュー(うさぎ跳び、マラソン、水泳など)が日課です。袖無し短パンで直射日光ガンガン浴びての運動。紫外線の害なんて無視!都会の軟弱色白モヤシっ子を、黒焦げ健康優良児に見た目からまず改造です!
国語、算数、理科、社会などの科目は本校からかなりレベルを下げた授業でした。体育にくらべて、うんと薄い感じの印象でしたが今になって「変だな?」と思ったのは国語の授業です。
それは国語の授業が「古典」の勉強だったこと!小学校って古文の勉強ありましたか?私は普通に登校してなかったからよく知りませんが、古典メインではないですよね〜。それも文法の勉強とか難しいものではなくて「百人一首」と「竹取り物語」の暗誦するだけ…。先生が「三浦では東京のみんなが勉強しないことを覚えたよって自慢出来るよ!」と言ってたような。。。謎。

どうしてなのか不思議です。他にも「茶道」と「琴」の授業もありました!何かしら古い思想に基づいく教育方針があったのでしょうか?(次回につづく。)

miura
海につづく長い坂道。ウサギ跳び、手押し車(二人組で行う運動)や駆け足で上ったり降りたりで基礎体力を向上!